文学作品6作とヨルシカのコラボ楽曲、両方に触れて感想を書いてみる企画。第四弾は、ヘミングウェイ『老人と海』とヨルシカ「老人と海」です!
国内外含めた新潮文庫の文学作品6作を読み、それを元にしたヨルシカのコラボ曲を聴いて、それぞれの感想を書いてみようという試みになります。
コラボの詳細は下記の記事を参照。
『老人と海』の感想に入る前に、ちょっとした報告を。
私事ですが、先日になって上記の新潮コラボ6冊(+「夢十夜」と『アルジャーノンに花束を』)を読み終わりました。
6冊を読み切るという勝手に課していた条件をクリアしたので、画集版の『幻燈』を購入し、リリースから半年経過して漸く拝聴した訳ですよ。
で、その感想はというと......ちょー良かったですね!
絵と音楽の組み合わせが生む効果とか、アルバム通してのテーマみたいなものは別の機会(あるのか?)に述べることとして、楽曲が本当に素晴らしかった。
コラボの6曲は言わずもがな、他の楽曲も全く劣らないクオリティでただただ傑作。以前までのヨルシカにあった攻撃性は薄れ、その代わりに心の機微をピアノの音で表すような美しい曲が増えた気がします。
(歌モノの)全ての楽曲が文学作品を下地としている為一つ一つの曲に奥行きがある上で、アルバム通して聴いてみたらぼんやりと統一性が見えてきたりと、かなり聴きごたえのある作品になっていると思います。
サブスク等でリリースしてない歌モノ6曲も、他の曲と遜色なかったです。
「又三郎」のような疾走感抜群のロックや、「月に吠える」や「451」のようなダークな曲はないので、それらに似たものを求めるとがっかりするかもしれません。
対して、「都落ち」や「ブレーメン」みたいなノリのいい曲や、「左右盲」「第一夜」みたいな静かでエモーショナルな楽曲が好きだという人は絶対気に入ると思います。
ってかよく考えると画集のみの曲どれもすごく好きだわ。「夏の肖像」「パドドゥ」はアルバムの中核を成しているし、「雪国」「いさな」も沁みまくるし、何と言っても「さよならモルテン」が最高!
形式がかなり特殊だし、値段も張るので購入を躊躇っている方も少なくはないでしょう。
もし本記事をお読みの貴方もその一員だとしたら、私は「買わない手はないですぜダンナ」と揉み手でにこやかな笑みを浮かべながら購入することをお勧めします。
さぁ、ポチろうぜ!(ダイマ)
閑話休題。
第四回となる今回は『老人と海』。
こちらはかなり有名な作品ですね。書店で目にする頻度も高かったです。
タイトルも良さげで気にはなっていたのですが、格式高そうな印象があって長らく敬遠していたんですよねぇ。ほんと勿体ない。
それで今回、ご存じの通りヨルシカさんに機会をいただきまして、満を持して読んでみた次第です。
感想としては率直に、名作ですね。
海とそこに住まう生き物の描写が一貫して美しいし、話の中心である巨大魚との戦いは迫力満点。
なにより老人・サンチアゴがひたすらにカッコいいんですよ!
どんな苦境に立たされても決して折れないで、ユーモアのある言葉を吐いてみせる。
その姿はハードボイルド以外の何者でもありません。
煙草も酒も出てこないし、ヒロインもいない。だけどこれ以上ない程にハードボイルド。
老人がこぼすセリフの一つ一つがクールすぎる。本を握る手に力が入るくらい緊迫した場面でも軽口を吐いてみせる老人に痺れっぱなしで、終始ニヤニヤしながら読んでました。
上記のように本作は冒険小説やハードボイルド小説の(極めて良質な)エンタメ作品とも捉えられるので、他の5作に比べてかなり読みやすかったです。
大衆小説しか読まないような僕でもめちゃくちゃ面白かったから、ヨルシカで文学に興味を持ったけど普段小説を読まないから手を出すのに躊躇っているみたいな人には全力でおすすめします。
また、真に迫った漁の描写が魅せるのは、物語的な面白さだけではありません。
四方八方を海に囲まれ、その身一つで魚と格闘する老人の姿から見えてくるのは、人間が持っている最も価値のあるモノです。
それが何なのかを明かすのは、まだ読んでいない人もいると思うので後に回しますが、僕は『老人と海』に、とても輝かしい魂の煌めきを感じました。
青一色に染められた海という単純な世界だからこそ、人間の本質的な美が見えてくると言いましょうか......上手く語れないけど、とにかく圧巻でしたね。
老若男女問わず、誰の心にも深く残るであろう、普遍的な人間賛歌。地球から海がなくならない限り、この作品の価値は揺るがないのでしょう。
不朽の名作って言葉はこういうものを指すんだなと思い知りました。
やはり具体的な内容を含めないとフワッとしたことしか書けないので、ネタバレを踏まえた感想に移りましょう。
一つ忠告しておきますと、この作品は、内容を調べずに読むことを強く推奨します。
何か凄いどんでん返しがある訳でもないし、何なら僕がネタバレだと思う部分を紹介で明かしているのも結構目にします。
それ自体を咎めるつもりはありません。著作権が切れるくらい昔の小説だもんね。
ですが、まっさらな気持ちで初めて作品に触れたときに抱く感動以上のものって、やっぱりないと思うんですよね。名作ならばなおさらです。
なのでこれから先の感想も、できれば『老人と海』を読了してから読んでいただけたら幸いです。
ていうか文庫で150ページもいかない文量だし、訳も読みやすい(少なからず僕が買った新潮社版は)からマジ読んでくれ!
損したと思ったら僕を東京湾の底に沈めてくれても構わないから!
......なんか読んでる人に頼んでばかりになっちゃったな。
結局僕が何と言おうが、どうするかは貴方の自由なので、気にせず貴方の好きなように選択してください。
ということで、以下はネタバレを含んだ感想になります。
ヘミングウェイ 『老人と海 』
内容(amazon紹介ページより)
八十四日間の不漁に見舞われた老漁師は、自らを慕う少年に見送られ、ひとり小舟で海へ出た。やがてその釣綱に、大物の手応えが。見たこともない巨大カジキとの死闘を繰り広げた老人に、海はさらなる試練を課すのだが――。自然の脅威と峻厳さに翻弄されながらも、決して屈することのない人間の精神を円熟の筆で描き切る。著者にノーベル文学賞をもたらした文学的到達点にして、永遠の傑作。
では、忠告もしたことですし、初めに物語の核心部分について語りましょうか。
『老人と海』が真の素晴らしさを発揮するのは終盤30ページ。
巨大魚をサメに食い荒らされてしまうというショッキングな展開にこそ、この作品が名作たる所以が詰まっていると思います。
老人は何日もかけて、巨大魚を仕留めました。左手を攣ったり、魚に親しい友達のように語りかけたりしながら、漸く手に入れた物凄く価値のあるもの。それを無残にもボロボロにされてしまう展開は、非常に辛いです。
だけども、老人は最後まで戦い抜いた。
次々に迫りくるサメに銛で、銛がなくなればナイフをオールに括りつけて、それもなくなればこん棒で。
「だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない」老人は言った。
「叩きつぶされることはあっても、負けやせん」
内心では獲物が全部食べられる運命を避けられないと悟っていても、知力と気力を振り絞って最後まで応戦し続けた。
その姿を、カッコいい以外のなんと形容できましょうか!
老人が並外れたタフさの超人という訳ではなく、ちゃんと弱い部分もあって、それが時たまに顔を出すのも重要なポイント。
至る所を噛みちぎられて原形を失っていく巨大魚を、彼が直視できなくなるという心理がサメとの戦いの途中で描写されます。
これが何とも人間らしくて、僕は大好きですね。
あれだけ勇猛果敢に大物と相対していただけに、食い荒らされた魚を見たくないという等身大の感情が、彼の人間味をグッと引き出しているのだと思います。
そして、老人の人間味を一番引き出しているのが、少年・マノーリンです。
『老人と海』の登場人物は非常に少ないです。その上、物語の内の大半のシーンは主人公が一人で海にいるため、登場機会も限られます。
しかしながら、数少ない出番で大きな存在感を放っているのが、少年なのです。
老人は基本的にどんな窮地に立たされてもニヒルに笑って見せるのですが、その合間で何回も少年を欲します。
あの子がいてくれりゃ。
何度も何度も、そうぼやく。
亡くなった奥さんのことでさえ殆ど感傷に浸らないような老人が、少年のことを思うと心が脆くなってしまう。
そんな素で漏れ出る弱音も、老人の魅力なのです。
で、そんな少年が実際に顔を見せるのは、物語冒頭と末尾。
冒頭では、少年が老人の身の周りの世話をする様子が描かれます。
漁で使う餌を仕入れてきたり、夕食を届けたり。マノーリンは健気に尽くします。
対するサンチアゴ、陸の上ではただの独居老人。一人では生活がままならなくなりつつある、どこにでもいるようなお爺さんなのです。
だから正直、冒頭のみでは老人の強靭さは全くと言っていいほど感じなかったし、そんな老人を強く慕う少年の気持ちにも、全然共感できませんでした。
しかし、私たちは知るのです。老人の偉大さを、彼と冒険を共にすることで。
海から帰って心身ともに疲弊しきり、深い眠りに就いた老人を最初に見つけたのも、やはり少年でした。
絶えず涙を流して彼の帰還に心から安堵し、また、尊敬の意を一層強める少年に、今度は強く共感できる。この読者としての心情の変化に、ヘミングウェイ、並びに訳者・高見浩氏の筆力がいかに凄まじいかが表れているのではないでしょうか。
老人と少年の会話がまた、すごくいいんですよね。
少年が目をキラキラさせながら話しているのがありありと目に浮かびます。
こことか好きすぎる。
「また一緒に漁に出ようよ」
「いや。おれには運がない。運には見放されちまったからな」
「運なんてくそくらえだよ。ぼくが運を持っていくから」
少年の真っすぐさと老人の優しさが詰まっていて、なんて言うか......いいよね!
物語は眠り込んだ老人を、少年が見守る場面で幕を閉じます。
老人はライオンの夢を見ていると書かれているのですが、これは老人の願望の暗喩になっているという説が主流みたいですね。
ライオンのように勇ましく、気高い存在でありたい。そのような願いを胸に秘め、老人はまた眠りに就いたのでしょう。
人間の素晴らしさが深く刻まれた、名作でした。
本当に読んでよかった。
135ページという文量に抑えられているのもあって、何回も読み返したくなりますね。
因みにですが、老人が捕らえた巨大魚の大きさは十八フィートだと作中で言及されています。
これはメートルに直すと5.49mです。わお。
自分の背丈の三倍近くある生き物に一人で挑んだと考えると、老人の強靭さが増しますなー。
さてさて、以上の内容も踏まえまして、ヨルシカの「老人と海」の感想に参りましょう。
ヨルシカ 「老人と海」
曲を聴いての第一印象としては、爽やか、ですね。
穏やかなリズムと涼しげなサウンド。まさに海辺に吹く風のような心地よさ。
で、何回かリピートして、驚くほどにシンプルな曲構造だということに気づきます。
曲の大枠としては
一番:イントロ→Aメロ→サビ
二番:間奏→Aメロ→サビ
三番:間奏→Aメロ→サビ→間奏→Aメロ
という構成になっています。
なんとCメロどころかBメロすらない。あまりにも潔い。
そしてバンド編成もギターとベース、そしてドラムとこちらもシンプル。複雑な要素を削って、原初のバンドサウンドのみで奏でられているんですねぇ。
その音楽の在り方は、青一色で満たされた海に重なります。
でもって、そんな単純な構成だったらマンネリなのでは?というとそうでもなく、寧ろ新鮮に聴けてしまうのがすごいところ。
僕の音楽知識が浅いのも理由かもしれないけど、ヨルシカのサウンドは垢抜けていて、やはり新しさがあるなと思います。勿論この曲も、何回聴いても飽きないくらいの耐久性がある。
シンプルだけど、果てしなく広大で、解き明かせぬ程に深淵。
音楽と海の親和性は高いのですね。
詞は、他の『幻燈』の曲に比べて、かなり原作に近しい描き方になっています。
誤解を恐れず言うのであれば、二次創作的。それも良質な。
ヘミングウェイの老人と海を読んでいればすぐにピンとくるのですが、視点は一貫して少年にあります。
少年の目を通して、海のロマンとそれに魅かれ続ける人間の感情が見えてくる、といった感じ。
それ故に、老人のタフさは構成要素から一切外れています。
個人的には老人が泥臭く戦い抜くところに一番魅力を感じたので、そこは少し残念。
一方、視点を少年に絞ることで、海や老人への憧れが純化された曲になっていると思います。
なので『老人と海』を現代ポップスに落とし込むという観点では、こちらが正解でしょう。
歌の始まりは小説のラストシーンの続きから。
巨大魚の死闘を終えて眠りに就いた老人が、再び起き上がります。
靴紐が解けてる 木漏れ日は足を舐む
息を吸う音だけ聞こえてる
貴方は今立ち上がる 古びた椅子の上から
柔らかい麻の匂いがする
靴紐の描写が事細かに描かれるのですが、これは老人の靴紐を指しているかと。
先述した通り、老人は身の周りのことが結構おろそかになっていました。新聞を枕にしたりと、生活への無頓着さは随所に見られます。
靴紐が解けるという描写は原作になかったですが、老人の人物像にはピッタリと嵌っていると思いますね。
というか絶対サンチアゴは靴紐解けても気にしないわ。よって実質公式。
あと、この”木漏れ日は足を舐む”って表現、良すぎ。
サビの言葉は、サウンドと同じく簡潔。
まだ遠くへ、まだ遠くへ。これが何度もリフレインされていて、強調されていますね。
海の魅力に憑かれた漁師が、沖へ沖へと向かおうとする。
老人と少年の共有する情熱が、suisさんの歌声により、鮮明な美しさを持って歌われています。
そんな明瞭なフレーズが並ぶ中で、唯一飲み込みづらいのが次の一節。
僕の想像力という重力の向こうへ
ここだけ『老人と海』という作品から、少し浮いているんですよね。
雲、風、海といった言葉が作品の情景を直截に表しているのに対し、想像力は小説のテーマでないし、重力なんかは(僕の記憶が正しければ)登場してすらなかったはずです。
では、何を意味しているのか?
その答えはn-bunaさんが自身の言葉で話されていました。
創作では、誰もが想像力を使って自分の知らない景色を見ようとする。
しかし、想像力は決して己の頭蓋骨を出ることはなく、想像できた時点でそれは想像力の範疇に留まってしまう。
だから、”想像もできない景色”に想像力で辿り着くことはできない。
それは言わば縛りであり、私達を四六時中地面に張り付けている重力に近しい。
そう分かっていながら、創作を辞めることはない。
意訳ですが、こんな感じ。
n-bunaさんの解説を踏まえると、”僕の想像力という重力の向こうへ”は創作者としての矛盾を孕んだ願いが込められた言葉として解釈できますね。
創作活動をしたことがない人間からすると、理想を追い求めるその姿勢はとても届かなくて眩しいものに思えます。
2番では場面が少し進み、老人と少年は海へ続く道を歩きだします。
靴紐が解けてる 蛇みたいに跳ね遊ぶ
貴方の靴が気になる
僕らは今歩き出す 潮風が肌を舐む
手を引かれるままの道
ここでもやはり、解けた靴紐にフォーカスが当たってますね。
老人のだらしない一面に気を病む少年が微笑ましい。
少年は甲斐甲斐しく老人の世話を焼いていました。
いつも老人を気にかけて、できることがあれば進んでやろうとする。そんな少年の健気で愛らしい一面が再現されていて、とても好きな歌詞です。
で、三番にもなると、少年の心配はピークに達します。
靴紐が解けてる 僕はついにしゃがみ込む
鳥の鳴く声だけ聞こえてる
ついに手を出しちゃったよ笑。
人の靴紐を結ぶって結構なお世話ですよね。でも、多分少年は嫌な顔一つせず、心から老人を思ってそれをするのだろうな。
で、この行動の意味について少し考えたことがあって。
それは靴紐が社会規範の例だという考えです。
例えば町中を歩いているとして、目の前にいる人が靴紐を解けたままにしていたら、どうでしょう?
四方八方に靴紐を遊ばせながら、それを気にも留めずに歩みを進めている人です。
多分、大方の人は気になると思うんですよ。
一般的に見てだらしがないし、転倒の恐れもある。その人が知り合いだったら、多くの人は靴紐が解けていることを当人に伝えることでしょう。
ですが、これはある種の固定観念でもあります。
身だしなみはきちんとする、時間は守る、挨拶を欠かさない。人間が社会の中で暮らしていくには、多くの不文律が存在し、意識的か無意識的かに関わらず、僕たちは常にそれらに縛られている訳です。
勿論、それが悪いことだとは言いません。
人が生きていく中で、他人と折り合いをつけることは必須ですものね。
寧ろ僕は友達が約束の時間を遅れたら結構イラつくし、路上にポイ捨てされた煙草を持ち主の口ん中にねじ込んでやりたいと常々妄想しているくらいの道徳意識を持ち合わせています。
明文化されないマナーを守ろうとする意識は、人の世で生きていく上で、最低限必要です。
ただ、その遵法意識は、時として枷になりうる。
規範から外れることを恐れるあまり、やりたいことが制限されてしまうことって少なくないと思うんですよ。
こと現代においてはコンプラやらなんやらが広まり、法を守ること以上の道徳心が強要される時代になっている気がします。
こうあるべき、こうあってはならない、みたいな理想が肥大化して、それが万人に求められる感じ。
靴紐は結んでいないといけないというのも、そのべき論の一つと取れるかもしれません。
少年の行動が、老人を労わりたいという純粋な優しさから来たということは、疑いようがないですが。
少し長くなりました。
ともかく、少年は老人の靴紐を結ぶわけですが、それに対する老人の答えがめちゃくちゃいいんですよね。
肩をそっと叩かれて ようやく僕は気が付く
海がもう目の先にある
......良い。とてもいいよね、ここ。
老人の身の周りを気にしていた少年が、ほかならぬ老人により海の存在に気づかされる。
その関係性がなんとも尊いものに感じます。
でもって、波の音と共に発せられるsuisさんの感嘆がまた、えも言えぬ良さがあります。
”あぁ”、という言葉にならない声は、海を眼前にした時のそれ。
わずらわしい事だとか、悩んでいたことだとかが、海の綺麗さで雲散霧消していくあの感じ。あれ本当、何でなんでしょうね。
再びサビで、遠くへ遠くへ向かわんとする信念が歌われた後に、彼らがまた海に出る場面で、曲は幕を閉じます。
僕らは今靴を脱ぐ、さざなみは足を舐む
貴方の眼は遠くを見る
ライオンが戯れる アフリカの砂浜は
海のずっと向こうにある
陸での生活に必須である靴を脱ぎ、海へ。
再び老人が海に、それも少年と共に出向く場面で終わるのが、原作を読んでいると凄くうれしいですよね。
創作の面でも、靴を脱ぐことに意味が籠っているように思えます。
規範だとか常識を脱ぎ捨てて、想像力の外を目指す。決してたどり着けない場所に向かい続ける情熱がある故に、創作物は人の心を打つのかもしれません。
原作へのリスペクトが多分につまった、爽快なナンバーでした。
小説と楽曲の『老人と海』の感想は以上となります。
今回は原作とのリンクが他の曲と比べて強かった気がしますね。
タイトルもそのままだし(てか、「老人と海」ってタイトルが洗練されすぎてて、これ以外に名前の付けようがないよなぁ)。
それ故に読んでいると頷ける要素をいっぱい拾えたので、個人的にはとても嬉しかったです。
では、次は来年になりそうですが、よかったら「左右盲」もしくは「アルジャーノン」の記事でお会いしましょう。