限りない日々の逃走劇

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ワイルド「幸福な王子」×ヨルシカ「左右盲」【感想】

文学作品6作とヨルシカのコラボ楽曲、両方に触れて感想を書いてみる企画。
第五弾は、オスカーワイルド『幸福な王子』とヨルシカ「左右盲」です!

 

 

国内外含めた新潮文庫の文学作品6作を読み、それを元にしたヨルシカのコラボ曲を聴いて、それぞれの感想を書いてみようという試みになります。

コラボの詳細は下記の記事を参照。

spice.eplus.jp

 

今回扱うのは「幸福な王子」、「左右盲」になります。
「幸福な王子」はアイルランド出身の詩人、作家、劇作家であるオスカーワイルドが著した童話。
僕は知らなかったのですが、このお話は結構有名みたいですねー。
なのでご存じの方も多いかもしれません。

童話というだけあって、つばめや銅像が喋ったり、煌びやかな宝石が登場したりと、一見するとメルヘンチックに感じられるでしょう。
しかし、そんな夢のある世界観に対し、作品のテーマは自己犠牲というシリアスなものです。
街に住む困窮した人々を救う為に、文字通り自らを差し出す王子と、それに仕えるつばめ。
物語の終わりはまるで、幸福とは何かと作者から問われているようでした。

他者の幸せを心より願う王子の、その高貴な精神に宿る美しさが胸を打つ、読み継がれるのも納得の名作だと思います。

 

一方、ヨルシカ「左右盲」は普遍的な恋人との別れがテーマ。
愛しい人の姿かたちや思い出が徐々にぼんやりと薄れていく様子を、右と左の区別がつかない人の視点で喩えた、非常に秀逸な歌詞の楽曲です。
そのテーマや題材故に、「幸福な王子」との関連性は低いように見えるかもしれません。
ですが、注意して聴いてみるとそこかしこに、原作の持つ美しさが散りばめられています。
それを、「幸福な王子」の感想を通じて、明かしていけたらなと思っております。

 

ということで、まずはオスカーワイルドの童話全集、『幸福な王子』の感想から参りましょうか!

例の如く、ネタバレ全開になりますのでご注意を。

 

ワイルド 『幸福な王子』

内容(amazon紹介ページより)

広場に立てられた王子の像が、宝石でできた自分の目や体じゅうの金箔を、燕に頼んで貧しい人々に分け与えてしまう『幸福な王子』。若い学生が恋人にささげる赤いばらを、一羽のナイチンゲールが死をもって与えてやる『ナイチンゲールとばらの花』など、十九世紀イギリスの小説家オスカー・ワイルドが格調高い文章で綴った、献身的な人間愛と社会への諷刺にあふれる9編を収めた童話集。

オスカーワイルドの全童話集ということで、幸福な王子のほかに8編が収録されています。
これ一冊でオスカーワイルドが書いた童話をコンプリートできると考えるとなんか得した気分になりますね。

して、読んでみた率直な感想としては、どの話も良い意味で童話らしい作品だったなと。
先述の通り、鳥とか花火がしゃべるし、魔女や人魚が登場するお話もあって、世界観はとてもメルヘンチックなんです。
しかしながら、ストーリーは甘くない。
人間の醜さに対する皮肉が随所に込められています。
時には毒々しさすら感じられて、子どもの為にあるというよりも、歪んでしまった大人への痛烈な批判を意図しているのではと勘ぐってしまいました。

ただ僕は、童話というものは子どもの為のもので、大人の鑑賞には堪えないものだとは以前から捉えていませんでした。
寧ろ逆で、大人ですら答えに窮するような疑問を問いただすことこそ、童話の意義のように感じていたかもしれません。
『ごんぎつね』とか、今読んでもどうしてごんも兵十も幸せになれなかったのかと悩むもんね。

そのイメージからすれば、オスカーワイルドが書く童話の在り方は非常に真摯であり、老若男女問わず感性のどこかしらに訴えかけるだけの強さがある。
子どもが純粋に楽しめ、大人もどきりとさせられる。その普遍性を含めて、良い意味で童話らしい、と感じた次第です。

ブレーメンの音楽師』が”人の心を美しく気高くする”と評されていましたが、『幸福な王子』の方がその言葉に相応しい気がしますね。
あっちはどちらかというと不条理で楽しい作風でしたので(もちろんそれはそれで非常に面白かったし、良いと思います)。

 

では「幸福な王子」に的を絞って、少し感想をば。

いや、ハッキリ言って辛い話だよね......。
ちょっと全体のストーリーをさらってみましょうか。

 

全身が金箔で囲われ、瞳と剣の柄には大きな宝石があしらわれた、”幸福な”王子の像。
民衆は彼の美しさを讃えるが、王子は内心で町にある貧富の不平等さに悲しみ、毎晩涙を流していた。
そんな嘆きを、エジプトへ向かう旅中のつばめが耳にする。
装飾された宝石を金銭的に貧しい人達の元へ届けたいという王子の願いを聴き届け、つばめは彼の剣の柄からルビーを、瞳からサファイアを抜き取り、病気の子や悩める戯曲家の下へ飛んだ。

 

 

ここだけ語ると、自己犠牲の尊さを訴える、言ってしまえばただのいい話に聞こえることでしょう。
ただその行き着く先が、あまりに惨い。

 

金箔も一つ残らず人に与え、王子はかつての煌めきを失ってしまう。
つばめも、冬の寒さにより弱って、ついには王子のもとで死んでしまう。
その瞬間、鉛でできた王子の心臓は二つに割れた。
変わり果てた彼を見つけ、町の民は罵倒し、最後には幸福な王子の像は炉で溶かされ、処分されてしまった。
町の要職に就く人らが、「次は自分の像を立てるのだ」「いや私のだ」と言い争う傍らで、つばめの死骸と燃え残った鉛の心臓が、無造作に捨てられているのであった。

 

いや、こう書いてみると悲しすぎるだろ......。
深い他愛の心を持った王子に対して、こんな仕打ちないでしょ。

しかも、王子の宝石を受け取った人たちは、誰も王子のやさしさに気づかないんですよ。
崇高な精神による献身が誰にも知られぬまま、文字通り粉々にされる訳です。あまりにやりきれない。
町の人らが見事なまでの手の平返しをするのもめちゃムカつきます。
何が自分の像を立てるだよ!てめぇらの晒し首でも飾ったろうかクソがよぉ!

まぁでも少し冷静に考えてみると、ほぼ全ての人間は、目で見える美しさに大なり小なり囚われているのでしょう。昔と比べ確実に進んだ倫理観のある、現代を生きる我々だって、そうです。
いくらルッキズムを批判しても、結局みんな美人やイケメンが好きですよね。見目よい美男美女は、今でも注目の的となるのがその証左です。
人は見た目じゃないという言葉は偉大だし、本当にその通りだと思うけど、それを曇りなく思い続けることは、目に頼って生きる限り難しい。
外見の美しさに囚われる愚衆へ、僕らは石を投げることができるのでしょうか?

 

一方、立ち返って見ると王子の目的は、困窮する人達に恵みをもたらすことでした。
寒さに凍え、飢えに苦しむ人々を一時でいいから救いたい。
その思い自体は、つばめを介して彼らに宝石をあげることで、叶えられているのですよね。
例え誰に顧みられなくとも、苦しんでいる人々が幸せになれたなら、王子はやっぱり幸福だったのだと僕は思います。
その無私の精神こそが、自己犠牲が尊いとされる所以でもあるでしょうし。

あと、まるっきり救いがないというと、そうでもないのですよね。
路傍に捨てられた王子の砕けた心臓とつばめの死骸を、「町じゅうでいちばん貴いものをふたつ持ってきなさい」と神さまに命じられた天使が天界へと運ぶシーンで、この物語は幕を閉じます。
かつての行いが評価されて、彼らは神さまに役割を貰い、天界で暮らすことを約束される訳ですね。
善い行いは誰かが見ていて、その報いがどこかで必ず訪れるという前向きなメッセージを、この終わりから受け取れるかなと思います。
ただ個人的には、結局神さまの下で働かにゃならんのかと、少し反感を憶えなくもないですが。

 

 

そして、「幸福な王子」で語るべき点がもう一つ。
つばめの王子への愛ですね。
元々エジプトへ向かう旅の道中にあったつばめにとって、王子の住む町は通過点でしかありません。なので本来は王子のことなど目もくれず、とっとと違う場所へ飛び立ってもおかしくなかったのですね。
それに、物語冒頭でつばめは葦に一方的に惚れ込むのですが、その場を動くことができない彼女(?)へ一方的に愛想をつかし、勝手にフリます(ここらへんの表現がユーモラスでおもしろかった)。
だから、元来旅好きであるつばめは、動くことのできない王子と一緒にいるはずがないんです。
それなのに、つばめは最後まで王子の下を離れなかった。これは、愛は道理や理屈を越えた概念であることの、一つの証明と言えるでしょう。

 

つばめの命が尽きる時、王子の心臓が二つに割れるのもとても意味深です。
ワイルドの他の童話でも、心臓が割れる描写があり、やはり何かしらを象徴しているような気がします。
個人的にはネガティブな現象として描かれてはないような印象を受けます。いずれの物語でも、生きる意味を失う程のショッキングな場面で心臓が割れるのですが、悲壮の色は薄く、寧ろ途方もない美しさすら感じられるのですね。
これは、心臓が割れる程の悲しみが、そこにあった愛の証として機能するからなんじゃないかな。
心臓は生に欠かすことのできない器官で、それが自発的に壊れるのは、もはや生きる意味がこれ以上ないと命自体が判断したから。生きる意味を失うのは、そこに生きる意味が存在したことの、確かな証でもあるでしょう。
つばめの死によって王子の心臓が割れる事の意味するところが、「わたしの命は君の為にあった」という告白だとすれば、やはりそこにあるのは悲壮ではなく、美しい愛情だと、僕は思いますね。

 

以上、「幸福の王子」の感想でした。

20ページに満たないお話なのに、これだけ語ってもまだ足りないし、深く心にも残るのだから、名作以外のなにものでもないですね!

「幸福な王子」以外の童話も素晴らしかったので、幾つか感想を載せておきましょ。

 

 

ナイチンゲールとばらの花」は、「幸福な王子」と同じく、自己犠牲が主題の一編。
令嬢に片思いをしている若い学生は、プレゼントする赤いばらがないと嘆いている。その彼に一目ぼれしたナイチンゲール(鳥の一種)が命を懸けて、ばらの花を奉げるといったお話。
ナイチンゲールが健気で可愛らしく、それだけに小さな体から流れる血によりばらを咲かせる場面が痛ましいです。

「でも恋はいのちにもまさるものです」

そう語るナイチンゲールの愛の結晶たるばらの花は、令嬢に受け取られず、学生は「恋なんてまったく非現実的だ」と言い残し、ばらを投げ捨て自らの部屋に籠ってしまうのでした。
オスカーワイルド、鬼か?

恋の素晴らしさを教えようとしたナイチンゲールの献身が、完全に水の泡となっているのがもう辛いのなんの。
例の如く、学生はその努力も知らずにばらの花を手にし、そして捨てていますし、やり切れません。

「幸福な王子」と重なる点がかなり多いですが、決定的に違う点が一つあります。
それはナイチンゲールによる自己犠牲の結果です。
幸福な王子は町の人々に宝石を与え、結果としてその対象者は、一時であるかもしれないけど、救われました。
王子自身は文字通り粉々にされてしまったけど、献身の対象が幸福なので、自己犠牲は実を結んでいます。

対するナイチンゲールはどうでしょうか?
ナイチンゲールの自己犠牲の対象者であった若い学生は、恋を諦めて閉じこもってしまいました。彼は人と分かち合う真の幸福を知らぬままです。
そう、尽力は全くの無駄(言ってて辛い)になってしまった。
この場合、如何にナイチンゲールの思いがいくら美しくとも、自己犠牲としての価値はなくなってしまうのです。

自己犠牲は、他者を想い自分を勘定に入れない、無私の精神。
例え自分がどうなろうとも、想った人が幸せならそれでいい。それこそが、自己犠牲を尊い存在たらしめる観念なのでしょう。
一方、対象者が不幸せのままに終わってしまったその奉仕を称賛すれば、他者の幸せが第一という前提が崩れてしまう。過程が大事と自己満足する訳にもいきません。
行為の成否が全て他者に依存しているから、ナイチンゲールの自己犠牲は成り立たないのです。
ここら辺が、自己犠牲という概念が抱えた欠陥なのかもしれません。

何にせよ、僕はナイチンゲールが可哀そうでならないですね。
恋の価値を捨て学問に逃避する学生も、一方的に憎むには正直重なる点が多すぎたので、報われてほしかったとやりきれない気持ちになりました。
二人とも、どうにか幸せになれないものだろうか......。

 

「漁師とその魂」は人魚に恋した漁師の物語。
展開が目まぐるしくて、とてもおもしろいです。
ある人魚に惚れ込みプロポーズする漁師だったが、人魚と結婚するには魂を捨てる必要があると告げられる。
漁師は魂の捨て方を教わりに魔女の元へ行く......のですが、その魔女が漁師を好きになっちゃうんですよね。
ブコメの波動を感じる。
てんやわんやの末に漁師が魂を捨てると、今度は魂の視点に移り、肉体に戻ろう
とする涙ぐましい努力が描かれます。
このなんでもあり具合が童話の楽しさって感じで、実によかったです。

すったもんだの末、漁師が愛した人魚は死に、その遺体に口づけを交わした漁師の心臓が割れて、魂は肉体に戻る。
言ってしまうと、肉体と魂の関係とか結末の意味するところとかはよく分からないのですが、理屈を越えた美しさを感じた気がします。
二人の亡骸を埋めた場所に、誰も見たことのない綺麗な花が咲く終わりも、何か言いようのない思いの美しさが感じられて、とても好きですね。

 

以上、ワイルド童話全集『幸福な王子』の感想でした。
続いて、ヨルシカ「左右盲」の感想へと移りましょう。

 

ヨルシカ 「左右盲


www.youtube.com

オスカーワイルドの童話と同様、息を呑んでしまうほど美しい曲ですね。

始まった直後から、やさしいアコギの音とsuisさんのややあどけなさを感じる歌い方に心を洗われます。
その2つのみの静かな音作りの中に、生活の最中に鳴るようなサウンドエフェクトが入ることで、曲との距離がグッと近づけられる。

からの”朝がこんなにも降った”というフレーズから、パッと色づくように音が溢れるのが綺麗で、心奪われます。
これにはアジカンファンもにっこり。

 

歌詞は、右と左の区別が瞬時に判断できない人を指す”左右盲”を、別れた恋人との記憶を徐々に忘れていってしまうことに準えたものみたいです。
n-bunaさんご本人の感覚が織り交ぜられているらしく、それだけに表現方法がとにかく巧い。
一番で愛する人の特徴として語られていた少し垂れている”右眉”。それが二番では”左眉”になっていて、憶えていたい面影が徐々に薄れていってしまう変化が切ないです。

上手く思い出せない

僕にはわからないみたい

そんな愛した人を少しずつ忘れてしまう一方で、懸命に何かを残したいと願うサビの在り方は、幸福な王子における貴い精神、まさしくそのもの。

一つでいい

散らぬ牡丹の一つでいい

君の胸を打て

心を亡れるほどの幸福を

美しいなぁ、やっぱ。
愛した人へ何かを残したい精神自体が素晴らしいのだけれども、”一つでいい”という控えめな心持ちなのが、却って思いの強さに捉えられて、とてもいい。
ただ君の為になりたい、という純粋な献身があるのみ。

”心を亡れる”のフレーズは、王子の鉛の心臓が割れるシーンと重なります。
これもやはり、自分の心自体を誰かに捧げてもいいと思えてしまう程の幸福、つまりは自己犠牲に繋がっていて、「幸福な王子」のエッセンスが見事に抽出されてますね。

 

また、Bメロではかなり直接的にモチーフを取り入れていて、それがまた素晴らしいです。

僕の身体から心を少しずつ剥がして

君に渡して その全部をあげるから

剣の柄からルビーを この瞳からサファイア

鉛の心臓はただ傍に置いて

ここで最初聴いた時に泣いてしまいました。あまりにも美しい。
”身体から心を剥がして全部をあげる”という尋常じゃない程に深い愛が、「幸福な王子」のシーンを抜き取ることにより、とても鮮やかで高貴な輝きを放っています。
思えば「又三郎」の”どっどどどどうど”はテンションぶち上げ!!!って感じの引用だったのに、ベクトルが全然違ってますよね。それぞれの作品に添った形で、換骨奪胎しているのが凄い。

あと、華やかなイメージの宝石を描いた後で、「鉛の心臓はただ傍に置いて」と言っているのも大好き。
ルビーやサファイアと違って鈍色で映えないのだけれども、一番価値あるものなんすよ!砕けてしまった心臓は!
それを”ただ傍に置いて”としているのが、もうねぇ......。

少し後の”今日の小雨が止むための太陽を”って歌詞もいいです。
幸福な王子は宝石や金箔を貧しい人たちへ届けたのですが、そもそもそれで凌ぐことができるのは一時でしかないんですよね。
救えるのも、王子の装飾が尽きるまでという限られた範囲の中でしかないし、町の力関係も変わらないから貧富の差は依然としてあります。
それを承知して尚、せずにはいられなかったのでしょう.....幸福な王子も、この歌の”僕”も。

 

そして、一番好きなのが、ラスサビのこのフレーズ。

わかるだろうか 君の幸福は

一つじゃないんだ

いやぁマジお前そういうとこやぞ!
それまで散々「一つでいい」「一つでいいんだ」「その一つを教えられたなら」って、君に一つでもいいから何かを残したいと、ささやかな願いを繰り返していたのに、君の幸福は”一つじゃない”って言ってるんですよ、この人は。どこまでも自分ではなく、離れて別の道を行く君の為でしかない訳ですよ。どこまで純粋やねんと。

「幸福な王子」の感想で、王子は誰に顧みられなくてもその人が幸せなら幸福だったといったことを述べましたが、それと全く同じですね。
相手のことを想い、自分は顧みない。その不釣り合いな関係こそ自己犠牲が持つ尊さで、別れた恋人がその後歩む道に、多幸があるようにと願う心にも、同様の高貴さが宿っている。

別れても尚その相手の幸せを願えるのは、かけがえもなく素晴らしいことだと思えてきます。
恋人いたことないから知らんけど🙄。

 

最後は、心を受け取った”私”の視点へ。
ここ、最初聴いた時に歌い方だけで別人だと分かって、すげぇなってなりました。
音程は変わらんし声音もさほど変わってないのに、僅かな強弱の差と息遣いだけで印象が全く異なったものになっているんですよね。尋常じゃねぇ。

何を食べても味がしないんだ

身体が消えてしまったようだ

貴方の心と 私の心が

ずっと一つだと思ってたんだ

明らかに未だ引きずっているのが切ないですよね。
”僕”が身体から心を剥がして渡したのに、”身体が消えてしまったようだ”と言っているのが、またつらい。
おそらく、「幸福な王子」同様、”僕”の献身には気づいていないのでしょう。

”貴方”と”私”が同じ道を行く、一つの幸福が欲しかった。
”ずっと一つだと思ってたんだ”は、もう貴方と共には歩めないことを悲しむようにも、貴方がくれた心と共に歩む決心だとも解釈できます。

いずれにせよ、”僕”の自己犠牲は”君”の為にあったから、”私”が歩むこれからが一番大切なのですよね。
......隣に”貴方”がいないとしても。

 

「幸福な王子」の高貴な精神が、悲恋の末に残る愛情として受け継がれた、非常に美しい一曲でした。

 

 

ここからはちょっとおまけで。

この「左右盲」、他の幻燈の楽曲と比べてタイトルが元の作品と全然違います。
風の又三郎」が「又三郎」で
老人と海」 が「老人と海」とそのままだったのに対し
「幸福な王子」が「左右盲」ですよ。不自然なまでに離れている。
というのも、この「左右盲」、『今夜、世界からこの恋が消えても』という映画の主題歌みたいで。
その内容が一日ごとに記憶を失ってしまう人との恋らしいんですよ。
僕は映画も観てないしその原作も読んでないから何とも言えないのですが、左右盲という題材も、歌詞の内容も、それに沿っているように思えますね。

 

でも、「左右盲」が「幸福な王子」に一切関係ないタイトルだとするのは、個人的になんか悔しいな(なんで?)と思ったので、ちょっとこじつけの理由を考えてみました。
かなり厳しいこじつけなので、「なんか言ってらぁ」くらいの感じで読み流してくだされば幸いです。


人と人のやりとりというのは、天秤で重さを量ることに近いです。
例えば林檎が八百屋に売っているとして、それに100円という値段がついていたとしましょう。
これはお店側が、林檎と貨幣価値を天秤にかけ、その釣り合いが取れると考えた点が100円だということですね。
それを目にした人は、お店側が提示した値段に対し、自分が妥当だと思う額を比べ、釣り合えば購入する訳です。

これはなにもお金には限らないことです。
人と遊ぶ時だってその時間が自分にとって価値あるかを天秤で量っているし、情けは人の為ならずという言葉もあるように人への親切もある程度打算が入るでしょう。
社交辞令という概念がなければ僕は研究室のBBQパーティーなんて行かないのです。

とまぁこんな風に人は、知らず知らずのうちに個々人の天秤を用いて、物事を量っていると言えるでしょう。

 

さて、ここからが本題。
左右盲」を天秤で喩えてみましょう。
仮に左をこの曲に出てくる”僕”、右を”君”とします(政治思想的な意味では断じてないです(こう断らんといけないのめんどいな))。
”僕”はサファイアやルビーなど、高価なものを右の天秤に置いていますね。
それに対し、左側には何も載っていません。なので天秤は大きく右へと、”君”の方へと傾きます。
本来であれば、人は釣り合いを目指してやりとりするのに、この場合は釣り合いが全く取れていないのです。
つまり僕である左と君である右の区別がつかない。右も左も分からぬほどに、君の幸福は僕の幸福。
その釣り合いが取れていないことこそが、”左右盲”の意味するところである。
......うん、やっぱ無理があるな。

強引で蛇足な推論、完。

 

 

童話「幸福な王子」と楽曲「左右盲」の感想は以上となります。
ヨルシカというバンドが持つカラーとオスカーワイルド童話の美しさが非常にマッチしてましたね。
”人生が芸術を模倣する”というオスカーワイルドの言葉を、n-bunaさんが大事にしているだけあって、リスペクトの高さがそのまま楽曲に反映された、素晴らしいコラボでした!
左右盲」が主題歌になっている『今夜、世界からこの恋が消えても』にも触れられたら良かったのですが、恋愛映画という最も縁遠いものだったので......。
いつかチャレンジできたらいいな。

では、よかったら次の「チノカテ」の記事でお会いしましょう。