限りない日々の逃走劇

主にtacicaを褒め讃えるためのブログです

宮沢賢治「風の又三郎」×ヨルシカ「又三郎」【感想】

文学作品6作とヨルシカのコラボ楽曲、両方に触れて感想を書いてみる企画。
第一弾は、宮沢賢治風の又三郎」とヨルシカ「又三郎」です!

 

 

初めなので、趣旨について軽く話しておきましょう。

ヨルシカという素敵なバンド(でいいのか?)がこの世に存在するのはよく知られております。
コンポーザーであるn-buna氏の作る繊細な世界観を、ボーカルsuis氏の美しく色彩豊かな歌声で表現する、特異なアーティストです。

 

そんなヨルシカが、国内外の文学作品6作とコラボし、それぞれの作品がモチーフとなる楽曲をリリースしました。

spice.eplus.jp


コラボに際し、加藤隆氏によるイラストの限定カバーが書き下ろされています。書店によく足を運ぶ方は見覚えがあるんじゃないでしょうか?

で、ここ最近になって漸くヨルシカにハマった時代遅れ人間がここにいてですね。
文学的な歌詞とクリアなギターサウンドに魅せられて、気づけば最新作『幻燈』を除く全楽曲を聴いてしまった訳ですよ。
なので、せっかくの機会だし、コラボ楽曲は元になった作品をちゃんと読んでから、一曲ずつ大事に聴こうと思いまして。ついでに感想を記事にすれば、PVが望めるより解釈が深まると思い、本記事を書くに至るといった感じです。

前置きはほどほどにして、まずは楽曲の元となった小説、宮沢賢治の『風の又三郎』の感想に入りましょう。

一応ネタバレ注意です。
文学作品であり、話のあらましを述べても作品を体験するにあたって不利益になる事はまず無いと思いますが、念のため。

 

宮沢賢治風の又三郎

内容(amazon紹介ページより)

「やっぱりあいづ又三郎だぞ」谷川の岸の小学校に風のように現われ去っていった転校生に対する、子供たちの親しみと恐れのいりまじった気持を生き生きと描く表題作や、「やまなし」「二十六夜」「祭の晩」「グスコーブドリの伝記」など16編を収録。多くの人々を魅了しつづける賢治童話の世界から、自然の息づきの中で生きる小動物や子供たちの微妙な心の動きを活写する作品を中心に紹介。

宮沢賢治はもちろん知っていましたが、実際に作品をちゃんと読んだのはこれが初めてな気がします。
中学の頃に『銀河鉄道の夜』を読もうとしたけど、よくわかんなくて投げちゃったんですよね。
小説とかアニメとかのモチーフとして目にすることが多く、いつか読みたいなと思っていたので、ヨルシカさんには良い機会をもらいました。

 

して読んだ感想ですが、イメージ通りの高尚さとイメージからかけ離れた不条理さ、その両方の作風が入り乱れていて、なかなか面白かったです。

個人的に宮沢賢治と言えば『雨ニモ負ケズ』の印象が深くてですね。己の損得を勘定に入れず、困っている人を助け、見返りを求めない。そんな高尚な方だと感じていたので作品にも気高い精神性が反映されているんだろうなと何となく思っていました。
もちろんその想像通りの作風もある訳ですが、残虐的でブラックユーモアが込められた作品も同じ数くらい収録されていて驚きましたね。

特に前半の収録作はその傾向が強いかな。

貝の火」はよくある寓話っぽいけどそれにしては罰の比重が重すぎるし、「ツェねずみ」と「クンねずみ」は主人公であるねずみの愚行がかなり露悪的に描かれている。

極め付きが「蜘蛛となめくじと狸」。大雑把に言いますと、傲慢な生き物たちが他の生き物を惨殺して、最後には自分が同じように殺されてしまうといったお話です。(Oh...ヴァイオレンス)
不条理な展開にはカフカっぽさを覚えたし、すごいスピードで命が散っていくドライブ感は白井智之作品を読んでいる時に感じるそれでした。
しかも残酷なだけじゃなくて、どこかユーモラスでもあるので本当に白井智之作品を読んでいる時の感覚に近かったですね。あとオチがひどい(褒め言葉)。

ただ理想を追い求めるだけじゃなくて、不平等の理不尽さや、人の本質は変わらない事への諦観のような現実的な考えも見えてきて、前述した『雨ニモ負ケズ』のメッセージに重みが増した気がします。

一方で、自己犠牲的精神が色濃く反映されていたのが有名な「グスコーブドリの伝記」。
賢治氏の故郷である岩手をモチーフとしたイーハトーヴで繰り広げられる物語は壮大で、まさに伝記と呼ぶに相応しい。
童話チックなロマンに溢れながらも、飢饉や農業の描写が非常に細かく、賢治氏の多岐にわたる知識が見て取れます。

主人公であるブドリが、自らを犠牲にする道を選ぶラストの展開はやはり胸が痛みますね。20代で肺を患い、37歳という短い歳月でその一生を終えた賢治氏が、ブドリに自らを重ねたとするなら、次の一節は余りにも悲しく、また、崇高です。

「私のようなものは、これから沢山できます。私よりももっと何でもできる人が、私よりもっと立派に美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」

ブドリの献身が冒頭に繋がって、別のブドリのような子供とその家族たちを救う。
個人的に自己犠牲を盲信するのは危ういと思っているのですが、信念に裏打ちされたその精神性は、やはり純粋で美しいと感じるのも事実です。
活劇的な広がりと味わい深い読後感があって、50ページに満たない文量に収まっているのが信じられないほどに素晴らしい1編でした。

 

 

そして肝心な「風の又三郎」なのですが、この話は前述した不条理な作風にも崇高な作風にも属さない、素朴で童話的な作品ですね。
あらすじをざっくり語るならこんな感じでしょうか。

とある小さな小学校に三郎という転校生がやってきた。周りの子どもたちは風変わりな彼の正体を、その地域の伝承に出てくる”又三郎”だと噂する。三郎と村の子どもたちが交友を深める一方で、三郎の謎は深まり......。

伝承と言うと凄い壮大な物語のように聞こえますが、話の中心に来るのは飽くまで三郎と子どもたちの交友です。
そのふれあいの瑞々しさが、何とも心地いい。
野山を自由気ままに駆けまわり、なんの躊躇もなく川に飛び込む。豊かな自然と戯れる彼らが輝かしくて、冷房の効いた屋内で本書を読んでいる自分にないものを暴かれるようでしたね。
......まぁクソ暑ぃから結局外には出ないんですが。

 

この話で一番印象に残るのは、やはり三郎少年の魔性っぷりでしょう。
三郎少年は北海道から本書の舞台の地に引っ越してきたという経緯が冒頭で語られます。村の小学生たちが、他所から来た彼の放つ雰囲気の異質さに「又三郎だ」と色めき立つわけですが、転校生が来て空気が騒めくって感じ、懐かしいですよね。
いつもの教室のいつもの面々の中に、顔も名前も過去も知らない子が突如現れる。それ自体がちょっとしたイベントだったし、転校生という存在そのものが謎めいていて、これからどうなるんだろうな?と不安と期待が入り混じる感覚を少し思い出しました。

それでまた三郎少年はその期待に十二分に応える訳でして。
彼が風の又三郎だと裏付けるような言動を匂わせたり、かと思えば無邪気な一面も見せたり、とにかく魅力的なんですよね。

例えば、たばこの葉をむしる場面。
一郎たちと葡萄狩りに行く道すがら、三郎は何の気なしに、純粋な興味からたばこの葉をちぎって手に取ってしまいます。
この行動を他の面々は「専売局(昔たばこやアルコールを扱っていた国の機関らしい)に怒られる」と囃し立て、三郎は知らなかったと怒るのですが、ここは非常に象徴的な場面でしょう。
村の因習や国の規律。元からあるルールに縛られず、気の向くままに動く。この在り方が後に触れるヨルシカの楽曲に大きく反映されていると思います。

あともう一つ印象的なのが葡萄狩り中の場面。
葡萄の木を一番に見つけて、ほかの子どもをけん制する耕助に、三郎は栗の木の上から水をかけていたずらします。この三郎がなんとも純粋無垢で愛らしい。THE・魔少年って感じでいいですよね。

怒った耕助は、風が及ぼす人への害をまくしたてるが徐々に勢いを失くし、さいごには風車を例に挙げてしまって三郎が大笑いします。このシーンも好き。
確かに、風は傘を壊すし屋根も吹き飛ばしてしまいます。TVでは毎年のように台風による被害が映され、その恐ろしさを知らない人はいないと言っていいでしょう。
しかしながら、そういった風が何もかもを飛ばしてしまう事に、どこか爽快さを感じられる人も少なくないのでは?
人が築いたものを、まさに何処吹く風と吹き飛ばす。まるで僕らをあざ笑うかのように。時に爽やかで、時に恐ろしい。そんな澄んだ二面性が、三郎に惹きつけられる魅力の正体なのかもしれません。

 

物語の最後、再びの転校により三郎はあっさりと小学校を去ってしまいます。
なので結局、三郎が本当に「風の又三郎」なのかどうかはわからないまま本作は終わりを迎えるのですが、それがまた絶妙ですよね。
果たして三郎少年は風の神の子”又三郎”だったのか、それとも普通の少年だったのか。
明かされることはなく、ただ、嵐がやって来る気配が描写され幕を閉じる。
筆舌に尽くせぬ、良い読後感ですねぇ......。

実はこの「風の又三郎」って、9月1日~9月12日までのたった12日間のできごとなんですよね。だから三郎とみんなは最後まで、互いにそれほどまで慣れ切らないのですがここも好きな点。
転校生の持つミステリアスさが抜けきらないうちにふっと消えてしまう。まさに風のように現れて、嵐のように去っていく。
短い間で爽やかに通りすぎるのだけれど、残る爪痕は甚大で。村の子たちや、僕ら読者の記憶に鮮烈なイメージを、彼は与えてくれます。

 

読了後に解説をあさってみたのですが、いろいろと考察されていて興味深かったです。
中でも、又三郎は危険なあそびを顧みない幼さの象徴だという解釈にはうなりました。子どもたちが彼と遊ぶのをやめるシーンが物語の後半にあります。それが実は川で泳いでおぼれるだとか、高いところから転落するなどの危険をはらむあそびを封印して幼さを卒業することのメタファーになっている、という考え方ですね。
なるほどなーって思いました(小学生並の感想)。
こういう、物語に潜むメタファーを読みとれたら、もっと読書が面白くなるんだろうなァ。

 

以上、『風の又三郎』の方の感想でした。
この一冊だけで様々な作風が楽しめて、なんだか得した気分です。
他の作品や、宮沢賢治氏自身の生涯にも興味が湧いたので、色々読んでみようかなーと考えてます。
機会をくれたヨルシカに、今一度感謝したいですね。

では、続いてそのヨルシカの「又三郎」について、「風の又三郎」の内容を踏まえて感想を。

 

 

ヨルシカ 「又三郎」


www.youtube.com

 

イントロかっこよすぎだろ!!

いやほんと、イントロのギターリフかっこよすぎてちびりますね。
クリアでかっこいいギターサウンドがヨルシカの持ち味だと思っているんですが、そのど真ん中って感じ。Cool。
ただ持ち味が出てるだけじゃなくて、風の持つ爽やかさや、すべてを壊していく力強さも表れていて凄すぎる。もはや畏怖の念しか抱かない。

そして歌詞がまた原作リスペクトに溢れています。
おおまかなテーマとしては「時代の閉塞感とそれを壊す風」ってところでしょうか。
spotifyポッドキャストで、n-bunaさん本人が楽曲と元となった「風の又三郎」について語られています。

 

open.spotify.com

 

それによれば、前述した”三郎の正体は人間か神様か?”という問いからは離れて、神の子としての又三郎が反映されているとのこと。
コラボ全体の印象なのですが、原作の物語をそのまま曲にするよりかは、ヨルシカが持つ特徴や要素を元の作品から抽出するという形で曲にしてる気がします。
この「又三郎」ではヨルシカや現代人が抱える閉塞感を打ち壊してくれる存在として、又三郎が歌詞に登場していますね。

わかりやすいのがBメロの部分。

風を待っていたんだ

何もない生活は

きっと退屈すぎるから

先ほどのポッドキャストでも語られていたのですが、コロナが猛威を振るっていたあの時期にぴったりのフレーズですよね。
判で押したかのように似通った退屈な日常が続く中で、それらすべてを吹き飛ばしてくれる何かを待ち望む感じ。
音圧も抑えめで、嵐の前の静けさのようなおもむきがあります。

からのすべてを解放するサビが最高に気持ちいい。
Bメロでベースが抜けていた分だけ音の厚みが増しているし、何よりsuisさんの歌声がエネルギッシュで素晴らしい。
それこそ、吞み込まれてしまうような力強さ。

そしてこのサビ後のコーラスですよ!
みんなのうたとかで流れてそうな朗らかさとパワフルさがあって、聴いていて昂ります。
”どっどど どどうど”は「風の又三郎」の冒頭の詩からの引用なのですが、ここまで完璧に曲の一部として組み込めるのは異常でしょ。
僕がはじめに読んだときは正直ぜんぜんピンとこなかったので、曲を聴いて(ああ、こういうことか!)と納得すると同時に、めちゃくちゃ悔しく思いましたね。同じ作品を読んでいて、こうも理解度が違うのかと。それはもう悔しくてハンカチを噛みながら滝のように涙を流しましたよ。

そんな嫉妬で狂った人間はさておいて、2番の歌詞がより一層素晴らしい。
おそらくn-bunaさん自身の分身である”僕”が又三郎に話かけるのですが、その返答の魔少年っぷりに痺れます。

風を呼ぶって本当なんだね

目を丸くした僕がそう聞いたから

ぶっきらぼうに貴方は言った

「何もかも思いのままだぜ」

ここ、かっこよすぎて毎回にやけてしまいます。
原作の三郎が持つミステリアスさといたずら心たっぷりな幼さが前面にでていて、超好きな一言です。

続く詞には”型に合った社会”という言葉が出てきて、今の世の中の空気感をより強調しています。
やはりここでも、待ち望んでいるのは風や雨なんですよね。
人々が今まで築いてきた文明や文化、その上に生活は成り立っています。僕らは現代のシステムに思いっきり胡坐をかいて日々を暮らしていますもんね。それなしでの生活なんて考えられない程に。
だけども、時にそれらは偏見や固定観念として僕らの視野を狭める。
既存のルールに縛られて、何が大切かも見失ってしまう。
だから、吹き飛ばしてほしい。暴風が家々を壊してしまうように社会やルールや固定観念すべてを取り払って、新しいものを築くために。
そんな心からの願いが「又三郎」に託されているように思えます。

それを踏まえると2番サビの

今に僕らこのままじゃ

誰かも忘れてしまう

は、現代人の叫びそのものに聞こえますね。

で、上記の詞の直後にCメロが挟まるのですが、ここが好きすぎる。

青い胡桃も吹き飛ばせ

酸っぱいかりんも吹き飛ばせ

これも「風の又三郎」冒頭の詩からの引用なのですが、最初聴いた時テンションぶち上がりましたね。
だって”どっどど どどうど”で原作要素を回収してるから、もうないと思うじゃないですか。そうやって油断しているところに、これ以上ない形で原作の詩を組み込まれたら、もうノックアウトですよ。
suisさんの歌声も最高ですねぇ。裏声が綺麗なんだけど、のびらかでパワフルでもある。圧倒的な歌唱力の高さが遺憾なく発揮されています。

最後の方のフレーズに、再び”貴方”という言葉が登場します。

行けば永い道

言葉が貴方の風だ

誰も何も言えぬほど

僕らを飲み込んでゆけ

素直に考えると、この”貴方”は又三郎を指していると捉えられます。
ですが個人的には違った捉え方もできると考えていて。この”貴方”は「風の又三郎」を遺した宮沢賢治氏自体を指しているとも考えられないでしょうか?

賢治氏の作品は独特で、今読んでも新鮮味を感じられます。
崇高でもあり、残虐でもあり、童話的でもある。読む人に瑞々しいイメージを与えてくれるのは、彼が紡いだ言葉そのものです。
90年以上も前に作られた物語が、現代を生きる我々の心に風を吹き込むというのは、なんとも言えない感慨深さがありますね。

現代人の悩みを不朽の名作と音楽の力で爽やかに吹き飛ばす、力強い一曲でした。

 

余談ですが、天気が悪くて風も強い日にこの曲を聴くと最高の気分になれるんでおススメです。ちょっと天候が陰ってきた時に外に出て、この曲を聴きながら散歩するのがここ最近の僕の一番の楽しみになっています。
なので風が強い日にニヤつきながら歩いているイヤホンを着けた変質者いたら、それは僕です。通報せず、(ああこの人、今「又三郎」聴いているんだな)と温かい目で見ていただけたら幸いです。

 

はい、小説と楽曲の「又三郎」の感想でした。
もっと短い記事にする予定だったんですが、大いに長くなりました。本当に全曲分できるか先が思いやられるぜ......。

とはいえ、こうやって小説を読んでそれをモチーフとした曲を聴いて両方の感想を書くことで、それぞれの理解度がとっても深まるなと書いていて思いましたね。
特に曲を聴いた時の、名作が音に落とし込まれているという感動は、なかなか味わえないものでした。
不朽の名作と新進気鋭のアーティストの曲が一遍に楽しめる。
いや~、本当に良いコラボですねぇ......。

では、お気に召しましたら次の「ブレーメン」の記事でまたお会いしましょう。