限りない日々の逃走劇

主にtacicaを褒め讃えるためのブログです

萩原朔太郎『月に吠える』×ヨルシカ「月に吠える」【感想】

文学作品6作とヨルシカのコラボ楽曲、両方に触れて感想を書いてみる企画。
第三弾は、萩原朔太郎『月に吠える』とヨルシカ「月に吠える」です!

 

国内外含めた新潮文庫の文学作品6作を読み、それを元にしたヨルシカのコラボ曲を聴いて、それぞれの感想を書いてみようという試みになります。

コラボの詳細は下記の記事を参照。

spice.eplus.jp

 

第三回となる今回は「月に吠える」ですね。
こちらは他の5作品とは異なり、小説・童話ではなくて詩の形態をとっています。
お恥ずかしながらわたくし、こういう記事を書いているにも関わらず、いわゆる文学作品というものにあまり触れてこなくてですね。そのうえ詩となると、もうからっきしな訳ですよ。
記憶にあるのは小学生の時分に授業で読んだ「おれはかまきり」ぐらいなものです(”おう なつだぜ”のやつ)。
むしろ、だからこそヨルシカにハマったこのせっかくの機会に、文学を嗜んでみようかしらと思った次第です。

そんなわけで初めて本格的に詩というものに触れた感想ですが、一言で言えば難しかったです。
何か裏に意味があるのだろうなとは気づけるのですが、その先が分からない。自己解釈ができた詩は1,2割程度で、後はさっぱりでした。うーん、実力不足。

で、印象に残った詩を何個か並べて、「よくわからないけどすごかった」みたいな小学生が書いた授業の感想未満のセリフを置いてとんずらすることも考えました。
でもそれって「ヨルシカの顔は?年収は?恋人はいる?→分かりませんでした!いかがでしたか?」みたいなクソ記事となんら変わらんよな(こういうのが実際に腐る程あるから困る)と思い直します。

悩んだ末、萩原朔太郎の詩について記した書籍を読み、生い立ちや境遇について知った上で記事を書いてみることにしました。
彼の抱えた葛藤と病症。それがどう詩に結び付いているか。
そして、ヨルシカは朔太郎の詩をどう読み取り、曲へ反映させたのか。
それを、拙いながらにも書くことができたらいいなと願っています。

前置きが長くなりましたが、感想へ参りましょうか。
ちなみに、本記事では著作権が切れているのをいい事に朔太郎氏の詩をべたべたと貼り付けています。
何の先入観もなしで詩を堪能したいという方は先に『萩原朔太郎詩集 (新潮文庫)』を読むことをお勧めします。

 

萩原朔太郎 『萩原朔太郎詩集 』

内容(amazon紹介ページより)

孤独と焦燥に悩む青春の心象風景を写し出した第一詩集「月に吠える」をはじめ、孤高の象徴派詩人の代表的詩集から厳選された名編。

はい、という訳でまずは萩原朔太郎の詩集から。こちらはいくつかの詩集を集めた著書になっています。だから厳密には”萩原朔太郎詩集集”.......でしょうか?

本稿で主に扱うのは、ヨルシカの楽曲のタイトルにもなっている「月に吠える」。
こちらは日本近代詩の父とも呼ばれる、萩原朔太郎の代表作です。
「新しい口語象徴詩の領域を開拓した第1詩集。孤独者の病的で奇怪な感覚を、鮮明なイメージと柔軟で緊迫感あふれるリズムによって表現している。」......みたいです(wikiより)。
語彙不足につき、wikiの引用に甘んじました(大学のレポートだったら怒られるヤツ)。

最初に話した通り、初見の感想として言えることは「分からなかった」。
詩はある種の以心伝心だと、朔太郎氏は「月に吠える」の序文に記しています。
「かなしみ」や「よろこび」を、言葉ではなく詩のリズムから感じ取る必要がある。
つまり、朔太郎氏の詩の真価を汲み取るには、彼の心と同調しなければならない。
僕にはそれができなかった。非常に残念です。

素養のなさを嘆いていても始まらないので、先人の知恵に頼ることにしました。
平たく言うと、本を読んで朔太郎について勉強したわけですね。
参考にしたのはこちらの本です。

購入した......訳では流石になく、図書館で借りました。
1988年の著書なのですが、保存状況がめちゃくちゃ良くてビビりましたね。司書さんに感謝!

f:id:ahobird:20230929161840j:image

こんな感じで、何人かの研究資料が収録されてる

主に『月に吠える』(その中でも『浄罪詩篇』と呼ばれる作品)の研究資料をかいつまんで読みまして、少しは朔太郎の詩を理解できたと思います。
というわけで、まずは彼の境遇についてざっくりと話しておきましょう。

一つ忠告しておくと、恐ろしく長くなりますよ。
なのでヨルシカの感想目当てできた方は、流し見していただければと思います。
だから.......帰らないでね!

 

萩原朔太郎の放蕩

朔太郎は1893年に群馬で生を受けました。医者の家系に生まれた待望の長男だった為、父から医師の道に進むことを強く促されます。
一方、朔太郎はこれに反発。病気がちで神経質だったことも起因して、浪人・退学を繰り返し、勉学の道からは遠ざかっていったのです。

そんな父子の軋轢がある中で、彼の心の拠り所は音楽でした。
幼少の折から同級生といるより、一人でハーモニカを吹くことを好む少年であり、中学でマンドリンを知ってからは、より一層、音楽にのめりこみました。
この体験が彼の詩の下地にあるのは間違いないでしょう。
『青猫』の序文にある「詩は何よりもまづ音楽でなければならない」という記述からも、音楽が朔太郎の詩に与えた影響の大きさが伺えます。

そんな朔太郎が音楽の道を志すのは至極当然の話。
父の了解も何とか得て、マンドリン奏者になろうと修練に励みます。
しかし、ここまで彼の心を支えてくれた音楽でさえも、彼の孤独の奥までは照らせませんでした。
父との衝突、勉学からの逃避、音楽の挫折。
幾重もの苦悩を抱え、放蕩の日々を送る朔太郎。
追い詰められた末に、彼が見つけた唯一の活路こそが詩だったのです。

朔太郎の境遇はやはり辛いものだなと、僕は調べてみて感じました。特に医師の道を強制された事は理不尽の極みですし、孤独を好んでいた点にも同調してしまいます。
それを踏まえると、彼の詩の重みが少しは手に取れるような気がしますね。

 

恐るべき”草木姦淫”

朔太郎の名を一躍有名にしたのが『浄罪詩篇』です。
これは9作からなる詩篇で、『月に吠える』にも「卵」「笛」「すえたる菊」「竹Ⅰ」「天上縊死」「冬」の6作が収録されています。
『浄罪詩篇』という名からも分かる通り、これらの詩は朔太郎氏が犯した罪の自白とその贖いが刻まれている作品です。
制作当時、詩人・北原白秋に宛てた手紙の中で、彼はこう告白しています。

「恐るべき犯罪(心霊上の)をおこなつたために天帝から刑罰されて居る」

彼は重大な罪を犯した(と少なくとも彼自身は思っている)。
故に詩で償う必要があった。
その罪は何であったかは定かではありません。ですが、上記の著書の中で有力とされているものが一つあります。
それこそが、彼の制作時のノートにも複数回登場する”草木姦淫”という言葉なのです。『感情の詩学』では、当時の彼を取り巻く環境や、抱いていた思想から”草木姦淫”の正体を探るという形で詩にアプローチする資料が大半でした。

では、草木姦淫についてどのような考察がなされたかと言えば、そのテーマは主に2つに分けられます。
信仰”と”エロス”です。

 

前項で触れたとおり、萩原朔太郎の精神は健全とは言い難いものでした。
神経質で病みがちだった彼はキリスト教に救いを求めます。その為、詩には度々キリスト教をモチーフとした心情が描かれます(新潮の詩集内では「かつて信仰は地上にあつた」がそれにあたるでしょうか)。
神の教えに惹かれ、詩の題材にも選ぶほどキリスト教にのめりこんでいた朔太郎。
しかしながらキリスト教の禁欲主義だけは、彼にとって決して受け入れがたいものでした。
キリスト教への崇拝と拒絶。
その矛盾が激しく発露しているのが「初夏の祈祷」です。

主よ、
いんよくの聖なる神よ。

われはつちを掘り、
つちをもりて、
日毎におんみの家畜を建設す、
いま初夏きたり、
主のみ足は金屬のごとく、
薫風のいただきにありて輝やき、
われの家畜は新緑の蔭に眠りて、
ふしぎなる白日の夢を畫けり、
ああしばし、
ねがはくはこの湖しろきほとりに、
わがにくしんをしてみだらなる遊戲をなさしめよ。

いま初夏きたる、
野に山に、
榮光榮光、
榮光いんよくの主とその僕(しもべ)にあれ。
あめん。
―一九一四、五、八―

この詩において朔太郎は自らを創造主であるキリストに見立てている、と研究資料内で小関和弘氏は推論しています。
詩を書くということは、一つの世界を創造するとも言える。いわば世界における神に等しい。
その聖なる存在である神を”いんよく(=淫欲?)”とすることによって、キリスト自身に反発を示したという訳ですね。
「いんよく=聖」の矛盾した等式。
禁欲に徹する神を快楽の地平まで堕とすという創作姿勢は、なるほど、恐るべき犯罪と呼ぶに相応しいものかもしれません。

 

さて、続いてのエロスの方ですが、こちらは大分下世話な話になります。
朔太郎は、詩を書き始めた頃にとある不道徳な行為に身をやつしていました。
率直に言うと不倫ですね。
コラそこ!「やっぱ詩人って不倫するんだな」とか言うんじゃない!
とはいえ(おそらく)朔太郎自身が二股をしていたわけではなく、恋人の方が家庭持ちという形の不倫でした。
(まぁ.......、セーフか?)
ただし、その相手は妹の友人であるエレナです。
(どアウトやんけ!!!)
『浄罪詩篇』を執筆する直前に朔太郎は、妹の友人である人妻エレナとの不倫がばれてしまいました。エレナの夫から、朔太郎の汚名を広めるぞと脅され、エレナとの恋は破局を迎えます。
不道徳な恋のカタストロフィ。これこそが”草木姦淫”の引き金だと、多くの学者は考えたみたいです。

一つの学説では、”草木姦淫”をエレナとの破局そのものとしていました。
朔太郎は女性のやさしさを求めるような詩を多く書いています。ベタな言い方をすれば、彼は真実の愛を求めていたのでしょう。
だけどその愛は、エレナとの恋愛の中で生まれず、関係が破綻した一瞬に生じた。
皮肉にも破局を迎えた瞬間に、朔太郎は本当に求めていた目的地に到達した、という考えですね。
<愛>と<破局>、そして前述したキリスト教への<崇拝>と<拒絶>。
矛盾した二つが同時に成り立つこの関係こそが、”草木姦淫”だと『感情の詩学』内の学説の一つで考察されていました。

 

余談ですが、朔太郎はエレナとの不倫とは別に、友人と行った飲み屋の娘にキスしたり、性交をしていないにも拘らず後に淋病が発病して”草木姦淫”のせいだとしたり、その罪の為に毎日一時間神に懺悔したりと迷走に迷走を重ねています。

うーん、文豪ってやっぱアレだわ。
さっきの同情、返してもらえますか?

そもそも朔太郎の整ったこの顔立ちを初めに見ていれば、そんな間違った同情は抱かなかったもんだ。

いやほんとイケメンすぎて腹立つな!
こんな顔が良くて音楽もやってて不倫している不純な芸術家に、僕のような高潔な人間(物は言いよう)がくれてやる同情はない!
陶酔するべきは詩であって人格ではないことを、読者の皆様には伝えておきたいです。
不倫、ダメ。ゼッタイ。

 

と戯れ言はここまでにして。
『月に吠える』期の萩原朔太郎についてはある程度書くことができたと思います。
この後朔太郎は文壇に嚙みついたり、結婚出産上京離婚帰郷と激動の人生を歩むのですが、そこまで扱っているといよいよヨルシカの楽曲まで辿り着かず、当記事の収集が付かなくなるのでここらで打ち止めとさせていただきます(そもそも僕も詳しく知らないし)。

では続いて、今まで背景について話してきた『浄罪詩篇』も含め、詩集全体の中で僕が好きな作品の感想を、実際の詩と共に述べていきましょう。

 

「悲しい月夜」(『月に吠える』収録)

 

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる、
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

 

まずは『月に吠える』から、月が象徴的に扱われているこの詩を。
詩集の装丁にも月と犬が描かれているので、実質的な表題作ですね。

いきなり”波止場で犬が月に吠えている”という情景から始まり、心を惹きます。
そんな物悲しい風景の直後に、”黄色い娘たちの合唱”が聴こえてくるのがまた孤独を強めている気がします。
そして最後に”おれ”が犬に嘆く。
犬の遠吠え、黄色い娘たちの合唱、おれの嘆き。悲しき声たちが、短い詩の中で複雑に呼応しあっている点が好きですね。
朔太郎の詩の奥深さや、病的な魅力が存分に表れていると思います。

で、素人なりに頭を悩ませてみますと、犬は朔太郎の心の一部を暗喩した存在だという考えが浮かびました。
『月に吠える』の序文で彼はこのように語っています。

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。

月に犬、そして遠吠え。この文が「悲しい月夜」と関連していることは間違いなさそうです。
注目したいのは犬が”自分自身の影を”恐れて吠えている点。これは朔太郎氏の心情と強くリンクしているでしょう。
過去は悪夢とまで語る彼ですが、その過去の持ち主は紛れもなく、朔太郎自身です。
彼が持つ陰鬱な感情の発露こそが、月に吠えるの意味するところであり、詩を書く行為そのものなんじゃないかな。
だから最後の嘆きは自分自身への絶望でもある訳ですね。
他にも含意がありそうだけど、素人の限界の為ギブアップ。

陰鬱で痛切な思いが刻まれる、朔太郎の象徴とも言えるような詩でした。

 

「内部への月影」(『蝶を夢む』収録)

 

憂鬱のかげのしげる
この暗い家屋の内部に
ひそかにしのび入り
ひそかに壁をさぐり行き
手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。
そこに宗教のきこえて
しづかな感情は室内にあふれるやうだ。

洋燈(らんぷ)を消せよ
洋燈(らんぷ)を消せよ
暗く憂鬱な部屋の内部を
しづかな冥想のながれにみたさう。
書物をとりて棚におけ
あふれる情調の出水にうかばう。
洋燈を消せよ
洋燈を消せよ。

いま憂鬱の重たくたれた
黒いびらうどの帷幕(とばり)のかげを
さみしく音なく彷徨する
ひとつの幽(ゆか)しい幻像はなにですか。
きぬずれの音もやさしく
こよひのここにしのべる影はたれですか。
ああ内部へのさし入る月影
階段の上にもながれ ながれ。

 

月繋がりでもう一つ。
『月に吠える』ではなく、その後に出版された詩集『蝶を夢む』内の詩です。

この詩、一番好きだったりします。
どう言葉にしたらいいのでしょう?月の描写の美しさ?感傷の表現の繊細さ?
どれも正しいようで違う。ただただ静かで綺麗な詩だなと。
ほんとそれ以上言うことがなくて困りますね笑。

具体的なことに触れますと、室内で月を眺めるというシチュエーションがまぁ好きですね。
書物を棚に置いて、灯りを消して、瞑想に浸る。
うっとりする程にエモーショナル......。
(僕含め)夜の時間をネットの海に費やす現代人が失った情緒が、ここにあります。

同じ月を題材にとっているのに、「悲しい月夜」と「内部への月影」でかなりテイストが違うのも面白いです。
前者は強く訴えかけるような激しさがあったのに対し、後者は愛しい人に体を預けるような甘さで満ちている。
僕も月を眺めながらベランダでアイスを食べたりすることがよくあるのですが、その時々でおいしさが違ったりするからどちらも共感しちゃいます(いっしょにするな)。

月を見るときに感じる儚さ見事に表現された、美しくて大好きな詩です。

 

「大砲を撃つ」(『「青猫」以後』収録)

 

わたしはびらびらした外套をきて
草むらの中から大砲を曳きだしてゐる。
なにを撃たうといふでもない
わたしのはらわたのなかに火藥をつめ
ひきがへるのやうにむつくりとふくれてゐよう。
さうしてほら貝みたいな瞳(め)だまをひらき
まつ青な顏をして
かうばうたる海や陸地をながめてゐるのさ。
この邊の奴らにつきあひもなく
どうせろくでもない 貝肉の化物ぐらゐに見えるだらうよ。
のらくら息子のわたしの部屋には
春さきののどかな光もささず
陰鬱な寢床のなかにごろごろとねころんでゐる。
わたしを罵りわらふ世間のこゑごゑ
だれひとりきて慰さめてくれるものもなく
やさしい婦人(をんな)のうたごゑもきこえはしない。
それゆゑわたしの瞳(め)玉はますますひらいて
へんにとうめいなる硝子玉になつてしまつた。
なにを喰べようといふでもない
妄想のはらわたに火藥をつめこみ
さびしい野原に古ぼけた大砲を曳きずりだして
どおぼん! どおぼん! とうつてゐようよ。

 

次も『月に吠える』外から。

この詩はけっこう直接的ですね。
はらわたの中に火薬を詰めて大砲を撃つというのは、明らかに詩を書くことのメタファーでしょう。
印象的なのは大砲を撃つ”わたし”をどこまでも自虐的に描いているところ。
目玉を開いて真っ青な顔をして大砲を撃つ様は随分と不格好です。それを自覚したうえで、何もかも諦めてそうなのが如何にも朔太郎らしい。

中盤では世間から見た”わたし”の姿を捉えていますが、これは半ば妄想に近い気がしますね。
世間はわたしを罵り笑う、誰も慰めてはくれない。
非常に直接的かつ、強い憎しみを感じます。

しかし、世間に認められず嘲笑されても尚、火薬を飲み、玉を吐き出すのを辞めないのはきっと、朔太郎の詩人としての信念がそうさせるのでしょうね。

どおぼん! どおぼん!
大砲の音は、今も響き渡ります。

 

「亀」(『月に吠える』収録)

 

林あり、
沼あり、
蒼天あり、
ひとの手にはおもみを感じ
しづかに純金の亀ねむる、
この光る、
寂しき自然のいたみにたへ、
ひとの心霊(こころ)にまさぐりしづむ、
亀は蒼天のふかみにしづむ。

 

はい。満を持して、『浄罪詩篇』として発表された「亀」ですね。
この詩は『月に吠える』内で「竹とその哀傷」という名で区分けられたうちの一つです。
ざっくり言うと、竹は罪のメタファーとして描かれているらしいです。様々な影が地の底から顔を出し、みるみる背を伸ばし、竹、竹、竹が生え......、って感じ。
”草木姦淫”の罪が、詩によって描かれている訳ですね。

そして『浄罪詩篇』が高い評価を得た理由が、ここに表れています。
それは”上昇”と”下降”という二つの対立軸です。
皆さんご存じの通り、竹は上へ上へと成長していきます。天を目指すが如く、真っすぐに。
罪のメタファーである竹が上へ向かう一方、「亀」は下へ沈んでゆく詩になっています。
垂直性の対立軸。この対比こそが、『浄罪詩篇』の真骨頂なのです。
(偉そうに語ってるけど全部聞きかじりだから気をつけて)

”草木姦淫”が生やした林が囲む、寂しい自然の奥深くに眠る”純金の亀”。
その正体について教えてもらったのは、『感情の詩学』ではなく、何年か前の大学の講義の時間でした。
私事ですが、大学一年の時分にカフカを読み解く講義をとっていました。
その第一回にメタファーの例として「亀」が扱われていたのです。
で、その事が記憶の端に追いやられた今になって詩集に収録された「亀」を読み、めちゃくちゃ驚きましたね。
ああ、この詩は朔太郎のだったんだ!って。
いや多分先生も言及してらしたと思うんですが(不真面目な学習態度が伝わってしまう......!)。

そんな数奇な巡りあわせは放っておいて、肝心の”純金の亀”の正体は......、あれ?なんだったっけ?
......あんまり覚えてませんでした。先生、不真面目な生徒ですみません。
おぼろな記憶を辿ると、人間の心の奥に潜む真に価値のあるもの......的な何かだったような気が無きにしも非ず。
まあ兎に角、亀は朔太郎が欲した価値あるもので、それが沈んでいることが重要です。
罪を自白し、作品を構築することにより彼が目指した天は、向かっていた上方になく、下方にあった。
亀が”蒼天のふかみ”に”しづむ”というのは、矛盾した表現のようで、その事自体を克明に表しているのだと思います。

詩が持つ神秘性の一端を、ぼんやりとですが味わえた気がします。
講義で習った(その内容あんまり覚えてなかったけど)という個人的な理由も含めて、非常に思い出深い一作ですね。

 

「天上縊死」(『月に吠える』収録)

 

遠夜に光る松の葉に、
懺悔の涙したたりて、
遠夜の空にしも白ろき、
天上の松に首をかけ。
天上の松を恋ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。

 

ラストも『浄罪詩篇』から、「天上縊死」です。
いやー、表題からして凄まじい詩ですよね、これ。
最初なんの知識も持たずに読んだときでさえも、よく分からんが表題もヤバければ内容もヤバいなと圧倒されました。ヤバヤバのヤバ。
何を意味するかは分からないがとにかく圧倒されるというのも芸術の素晴らしさだとは思います。しかし、せっかく色々調べましたので蛇足な解説を。

この詩においてもやはり、カギになるのは”垂直性”です。
縊死は首を吊って死ぬことですね。ミステリ小説を愛読されている方はよくご存じでしょう。
そして、「天上縊死」は明らかに首吊り自殺を描いています。エレナとの破局にキリストへの冒涜、そして”草木姦淫”。大罪を犯した朔太郎に、残された道は死しかなかったのかもしれません。

注目すべきは、縊死が下方に落ちることによって為される点です。
最後の行の直前で、罪人の意識は天上にあります。
”天上の松を恋ふる”とあるように、罪人は上方にある天を欲していた。
しかし、罪人は次の行で落下し、縊死してしまう。
上方を目指しているのに、下方へ落ちていく。矛盾した二つが同時に成り立つ、”草木姦淫”そのものです。

天上へ到達する唯一の術は、地へ落ちる事。
悟りに至った朔太郎は、天への恋心と贖罪の祈りを抱えながら、首に縄をかけ、落下していったのでしょう。
かくして、後世に語り継がれる名詩の詩法は確立されました。
懺悔者の死をもって、『浄罪詩篇』は完成に至ったのです。

初見の時点でもなんとなくの雰囲気で圧倒されましたが、こうして作者の境遇を知って考察を頭に入れた上で読むと、やはり重みが変わりますね。
詩の裏に潜む凄みを少しでも感じ取れたから、色々調べた甲斐があったなと思います。

以上、各詩の感想でしたー。

 

 

言葉にならない感情と詩

朔太郎の詩に対する感想は以上で終わりなのですが、『月に吠える』の序文がn-bunaさんが書く詞の根底にある考えと深く関わる、非常に興味深い内容だったので少し触れておこうかと。
実は「月に吠える」という曲自体とはあまり関係ないのです。それでもヨルシカ自体とは密接に関係していると感じたので、書かない手はないと現在の文字数から目を逸らしながら覚悟を決めました。

詩に比べてかなり理解しやすい文章なので、ぜひ原文をお読みになっていただきたい。

リンクの二つ目の序についてですね(一つ目の序を書いた北原白秋氏は、朔太郎が詩の道を歩むきっかけを作った詩人です)。

 

www.aozora.gr.jp

ここで語られているのは、詩の存在意義です。
朔太郎は序文のはじめに、こう定義しています。

詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

詩の存在意義は、人間の心理を表す為にあるという考え方ですね。
後の文で詳しく語られているのですが、彼は言葉で言い表し難い複雑な感情を詩のリズムに託していたようです。
人の感情は極めて単純かつ複雑で、極めて普遍的かつ個性的、という特異なもの。
リズムによる以心伝心によって、誰かとその感情を通じ合うことが詩の存在意義なのだと。

朔太郎はこうも言っています。

どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

”言葉は何の役にも立たない”。
ヨルシカに通じるのはこの価値観です。

ヨルシカの詩の中で、”言葉”という語はかなり高い頻度で現れます。
しかしその多くは、言葉の無価値さを糾弾するような登場の仕方をしているんですよね。

例えば「春泥棒」の

花開いた今を言葉如きが語れるものか

とか、「八月、某、月明かり」の

最低だ 最低だ 言葉なんて冗長だ

あたりが顕著。
”言葉如き””言葉なんて”という風に、言葉の存在ごと徹底的に腐しています。
まさしく朔太郎が語った、言葉の役立たずさを訴えるような内容です。

では、ヨルシカは何故そんなことを歌っているのでしょうか?
歌うというのは言葉ありきの事ですし、アーティストとして活動を続ける以上、もっと言えば人間として生きていく限り、言葉から解放されることはないはずです。
なのに何故、言葉の頼りなさを叫ぶのか、以前から疑問でした。

それは、複雑な感情を表現するのに言葉が力不足だからなのだと「月に吠える」の序文を読んで気づきました。
人間の複雑な感情を表現するには、言葉だと限界がある。
だからヨルシカは、詩の表現や音楽を通して、言葉にならない感情を表現しようとしている。

そう思えば「テレパス」は、まさに詩を通した以心伝心(=テレパシー)を描いた曲なんですよね。

二人の対話形式で描かれていて、片方が「どう言えばいいんだろうか」と雪化粧や壁のペンキ等の比喩により感情を伝えようとしているのに対し、もう片方が寂しさや思い出等に形容し「それを言いたかったのね」と解釈する。
でも、結局はそれらの比喩も言葉にならない感情を詩として表現しているはず。だから言葉にしてしまった時点で、本来の意味を失っているんです。
そんな通じ合えないことの悲しさを描いた上で、最後に(ね?言わなくたっていいの)と言語を介さない真のテレパシーによる救いがあるのが本当に美しい。

テレパス」についてこれ以上詳しく触れると長くなるので、またの機会に記事を書こうかなと思います(いつになるとは言わない)。
兎に角、n-bunaさんの詞に対する観念が朔太郎の影響を大きく受けているのは間違いなさそうです。
朔太郎の詩も、ヨルシカの歌詞も、僕らが普段感じている言葉にならない感情を表現しているからこそ、我々の心に刺さるんでしょうね。

裏を返せば、作品に言葉を書き連ねるこの行為自体が無粋なのかもしれませんが......。
ま、いっかー☆

 

はい、脱線に脱線を重ね、非常にダレましたがヨルシカ「月に吠える」の感想へ参りましょう。
みんな、帰ってないよね?

 

ヨルシカ 「月に吠える 」


www.youtube.com

 

再生して0秒でリスナーに咳を聞かせる挑戦心よ。
新曲聴くぜ!と胸躍らせたリスナーを容赦なくふるいにかける、恐ろしいバンドだ。
ただ、それを飛び道具として取り入れている訳ではなくて、朔太郎の病的な空気感の演出に組み込んでいるあたりが見事です。

曲全体の雰囲気としては結構チルっぽいんですよね。
ブレイクが多めで、飾り気がない。月夜の静けさがベースにあります。
だけど、一つ一つの音は力強い。
イントロやサビで鳴っているアコースティックギターは、楽器のイメージと裏腹に殴りつけるような暴力性を孕んでいる。
何よりsuisさんの声が低く響いてカッコいい!抑えめな歌い方のAメロから、サビで張り上げたり透き通るような裏声になったりと変幻自在です。
どんな歌い方でもできるな、この人。
静謐な美しさと、悍ましい衝動。
相反する二つが同居することで生まれる不安定さ。
それが、朔太郎の詩世界を音の面で表現しているのかなと思います。

 

一方、詞の面ですが、こちらの下地にあるのは『月に吠える』の実質的な表題作と紹介した「悲しい月夜」ですね。
月夜というロケーションはそのままですし、後半には波止場も出てくる。
極め付きは一人称。ヨルシカが普段歌わないの”おれ”(しかもひらがな)が使われています。
「悲しい月夜」がほぼ骨子にあると言い切っちゃっていいでしょう。

歌詞の中で中核をなしているのは”おれ”と”獣”です。
街へ繰り出して、人溜まりの中で獣が月に吠える。
「悲しい月夜」の文脈で歌詞を捉えますと、”おれ”は”獣”で、月に吠える行為はヨルシカが音楽活動をすることそのものだとも解釈できます。
時分自身の陰鬱な感情を獣として切り離し、叫ばせることで音楽が生まれる。
で、ヨルシカは人気のアーティストだからその音楽に聴衆が群がって人溜まりができるんだけど、それに対する感想が

おれの何がわかるか

なあたりがn-bunaさんって感じですよね。

 

Aメロから、指パッチンや吐息といった楽器外の音を挟んで歌われるサビが解放的で気持ちいい。

一切合切放り出したいの
生きているって教えてほしいの

吠えると題しているのに、サビでさえ声を荒げるような喧しさは一切なくて、「~したいの」とか「~ほしいの」みたいに甘えるような口調なのがなんともピュアかつ大人っぽい。
朔太郎の詩が持つ色気が、このあたりに強く出ている気がします。

で、サビの中でも印象的なのが次のフレーズです。

アイスピックで地球を砕いてこの悪意で満たしてみたいの

非常にサディスティックで退廃的な欲望。めちゃくちゃ危険な思想犯です笑。
もちろん、現実ではアイスピックで地球を砕くことなどできる訳がありません(無粋なツッコみかも)。
なのでここで歌われる”地球”は飽くまで、”おれ”の脳内世界から見た地球だと思うんですよね。
朔太郎が自身の詩世界で創造主となったように、詞の中で世界を構築して、破壊してしまいたい。
そういう欲望が歌われているのだと、僕は解釈しました。

 

2番からは自虐的な表現が強まって、病的な空気がより濃くなっていきます。
自分の一部でもある”獣”を醜いと形容しているし、サビでは

誰もお前に期待していないの

と、ゾッとするような言葉を吐き捨てています。
この”お前”も、”獣”を指しているのだと思いますね。
自分の分身である存在にこれほどまで強い言葉を吐きかけられるのは矢張り、どこかで自分自身を嫌っているからなのでしょう。
思えば、朔太郎の人物像を強く反映したセリフでもあります。
父から掛けられた医者になることへの期待に歯向かい、自身の音楽家になりたいという夢にも応えられなかった。
その末になった詩人としての活動も、「大砲を撃つ」のなかでとても醜いものとして描いています。
終いには同作で”わたしを罵りわらふ世間のこゑごゑ”という記述まであり、自分に自信がなかったのは確定的と言えます(当時SNSがなくて本当によかったね)。
そんな病的で後ろ暗い精神が、朔太郎の作る詩の根底にながれていて、この曲の魅力としても作用しているのだと思います。

あと、意味自体はよく分からないけど

硬いペンを湖月に浸して波に線を描いてみたいの

ここの歌詞の表現が綺麗すぎてうっとりしてしまいます。
現実にはありえないシーンをここまで美しく思い描けるのは詩の妙だよなぁ......。

 

”時間の赴くままに”という言葉の終わりと共に誘われる間奏とCメロは、非常に蠱惑的。ギターのロングトーンが徐々に時間の感覚を狂わせて、夢見心地になっていきます。
ただのまどろみじゃなくて、不協和音(でいいんですかね?)によって悪夢のようなトリップ感があるのがいいですよね。
犬になって月に吠えたり、蛙になって砲丸を吐き出したり、果てに首を吊ってしまう朔太郎の奇天烈な詩世界にぴったり。

からの簡潔なCメロのインパクトにやられます。

皆おれをかわいそうな病人と、そう思っている!

いやーここいいよねぇ。
目ん玉ガン開きにして、周りを睨め付けながら言い放ってるのが目に浮かんでゾクゾクします。
!が後ろについているのに、語調としては段々下がって、最後は吐息と共に震えて消える感じなのも堪らん。
朔太郎の神経質な気風とヨルシカの攻撃性が相まって、危うくも惹きつけられてしまう、不道徳な魅力を醸しています。


それでまた静かに盛り上がるラスサビが最高です。
メロディの変化は殆どない代わりに、純粋な音と声の綺麗さと、詞の表現に魅入られますね。

ま、まだ世界を犯したりないの

ここのsuisさんの歌い方、色気が半端ないです。一瞬どもって声が裏返る、この弱々しさが却ってアダルティに聴こえて.......赤面してしまいます。
詞もかなりキワどい。だって”犯したりない”ですよ!意味深にもほどがある!
僕が漫画とかでよくいる謎に権限の強い風紀委員だったら「不健全だ!」って声を荒げて取り締まってますよ!まったくけしからん。

ただ、その対象があくまで”世界”なのがいいんですよね。
自ら作った世界を、半ば病的とも言える妄想で満たしていく。淫靡な言葉が、朔太郎の詩そのものを表した、非常に文学的な言い回しにまで昇華されています。
「春ひさぎ」や「花人局」でも思ったのですが、破廉恥なワードをこれだけ品よく詞に取り入れられる言語センスが凄い。猥談に若干のアレルギーを感じる僕みたいな人間でも抵抗なく聴けて、ありがたい事この上ないです。

そして刮目すべきはこのフレーズ。

アイスピックで頭蓋を砕いて温いスープで満たしてほしいの

マゾヒスティックで猟奇的な願望。
1番サビのフレーズと対比されていることは言うまでもないのですが、その描き方が凄いです。

”地球を砕いて~”の方は上でも触れましたが、妄想の世界を破壊してしまいたいという、極めてサディスティックな願いだと解釈できます。
しかしながら妄想の世界は、自らの脳みそが生み出しているにすぎません。
その世界を壊すことは、即ち自分の頭をカチ割ることに等しい。
地球を砕きたいというサディスティックな欲望は、自分の頭蓋を砕かれたいというマゾヒスティックな願望と等価になってしまうのです。
サディズムマゾヒズム。相反する2つが同時を同時に成り立たせるこの表現技法は萩原朔太郎が『浄罪詩篇』生み出した、”草木姦淫”に忠実に則っています。

テーマや言葉だけじゃなく、こうした技法の面までリスペクトして作られているのを思い知って感動しましたね。
マジ色々調べた甲斐があったぜ。

 

曲としての答えが、それまでの陰鬱さに反して、案外爽やかなのも好きです。

月に吠えるように歌えよ

嗚呼、喉笛に住まう獣よ

この世界はお前の想うが儘に

醜いとまで評して邪険に扱っていた獣に、最後には思いを託しているのがいいですよね。
心を病む程、不安に追い詰められているけど、それが芸術作品を出力する原動力にもなっている。獣への愛憎の深さが肌で伝わります。

 

朔太郎の倒錯した詩情が、音と詞の両面で再現された、背徳的で美しい曲でした。

 

 

以上で、二つの「月に吠える」の感想は終わりなのですが、いやー作品に感化されて、なんか月を眺めたくなりましたねぇ。
あれ、そう言えば今日ってもしかして......。
そう、まるで狙ったかのように(実際狙ったんだけど)今宵はお月見!
五穀豊穣への祈りと感謝を月に託す、慎ましくも美しい催しです。
人混みで馬鹿騒ぎして「お菓子をよこせ」と跳梁跋扈する野蛮な秋の某イベントの1億倍は素晴らしいね(注意:あくまで個人の歪んだレンズを通した意見です)。

100年以上も前に朔太郎を叫ばせた月が、今宵も我々に影を与えます。
貴方も月に向け吠えては如何?

ではまた、本記事の完成を十五夜に間に合わせるために後回しとなった、「老人と海」の感想で会いましょう。