限りない日々の逃走劇

主にtacicaを褒め讃えるためのブログです

阿呆学生に憧れたド阿呆/或いは浮遊する孤城に木霊した慟哭

 

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
なぜなら、私が間違っているからだ。

 

大学生活も終わりに差し掛かる4回生の年の瀬、私は音のない部屋で己のキャンパスライフについて思いを馳せている。黒髪の乙女は隣にいない。
街中ではアベックがいけ好かない高級洋食店を予約の山で賑わせ、吉野家の牛丼大盛りが二食分は優に乗るであろう皿にちょこんと居座る、兎でもその消化器官を満たせないような極少量の、現代アートめいた食料を有難がり、理性ある人間ならば恥ずかしさに顔を日暮れの色に染めてしまうような愛の言葉を囁き合っている。
そんな町が不埒なピンク色で染まる日に、私は一人、手を泥まみれにして悔恨の穴を深く深く奥へ掘り進めている。
勿論、穴に落ちるのは私自身だ。

あゝ斯様な自己憐憫が一体何を生むというのだろうか?

バラ色のキャンパスライフなる幻の至宝が存在しないことなど、森見登美彦読者の私はとうの昔に知っていた。運命的な出会いがあり、すったもんだがあった後、男女2人がハートの中に収まりTHE・ENDの文字が刻まれるのはフィクションの中のみだ。実際はもっと猥雑で、味気ない日々が待っていることなど、その門扉をくぐる前から知っていた。
だから実体のなき幻想を追い求めることなど、私は端からしなかったのである。
.......女子を侍らす不埒な同級生の実在も頭から消しながら。

人間向き不向きというものがある。己が命運に見切りをつけて、手の届かぬ果実から目線を外し、別のベクトルに加速度を与えるのは全くもって合理的な舵取りである。
なぜか目に涙が溜まっているようだが気のせいだ。

そこまでは良い。
あろうことか阿保大学生に憧れた。これは人類が始まって以来最も愚かしい歪んだ憧れと言えるだろう。

 

人生最後のオアシスとも噂される大学生活がじりじりと終わりへ近づいているこの聖夜にも、私は一人、冷える足先をぬくぬくと炬燵で温めながら『太陽の塔』を読んでいたのだ。
末期である。処置なしである。救いようのない阿呆である。

 

 

太陽の塔を読むのは、これで三度目だ。
彼らの阿呆さは何度読んでも色褪せず、相も変わらず笑える。
ろくろく大学にも通わず、日がな一日妄想と、世間への無益で一方的な抵抗に勤しむ。
不毛に不毛を重ねる彼らの勇姿に相対して、私は畏敬の念を込めた笑みで返すのだ。

彼らを曳航する指導者たる飾磨の演説の一幕なんかは、私も快哉を叫ばずにはいられないのだ。

クリスマスイブこそ、恋人たちが乱れ狂い、電飾を求めて列島を驀進し、無数の罪なき鳥が絞め殺され、簡易愛の巣に夜通し立てこもる不純な二人組が大量発生、莫大なエネルギーが無駄な幻想に費やされて環境破壊が一段と加速する悪夢の一日と言えるだろう。彼らが信じ込んでいるものがいかにどうでもいいものか、我々が腹の底からわからせてやる。

そうだ!よく言った!
流石我らが時代のリーダー飾磨大輝だ。

上の台詞だけを読めば、彼らが何か身の毛もよだつような大犯罪を決行すると思い、「そんな危うい真似は許しません!」と良心の呵責に訴えて止めにかかる健気な淑女の方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、安心してほしい。
彼らは施しようのない阿呆であるが、それと同時に根っからの紳士なのである。
野蛮な真似はしない。もっと独創的で馬鹿馬鹿しくて実に痛快な手段を選ぶのだ。
一体どんな手法を選んだのかは、是非、読者諸氏の目で確かめてほしい。

兎にも角にも、彼らはクリスマスに浮かれた世間に果敢にも立ち向かった。

その勇姿を今日、胸に刻み、そして私もささやかながら抵抗を試みた。
そう、私も侘しさから逃げなかった。
今日も、私は「クリスマス?なにそれ?美味しいの?」と逃避を目的とした局所的記憶喪失をすることがなかった。
寧ろその逆だ。
私は勇んで、カップル家族が仇名す幸せの形を、独り身で再現したのだ。

ケーキを買った。シチューを作った。クリスマスツリーを飾った。

見よ!我が豪華絢爛の食卓を!

頼むから見てくれ!そうでないとこの愛しき有機化合物たちは外ならぬ私の臓物により、私以外の誰にも顧みられることなく、醜く形を失ってしまうのだから。

 

 

どうだ!
私も、私を排斥しようと目論むクリスマス・ファシズムに果敢に立ち向かったのだ!

......と、いくら吠えたところで虚しいだけだ。
あたたかなシチューに、孤独な味が入り混じっているように思えるのは、気のせいではない。
因みにワイングラスに注がれているのは三ツ矢 特濃グレープスカッシュである。
誇り高き紳士たる私が酒に溺れることなどないのだ。
飲み会に誘われないから飲酒する機会が限られていて酒の嗜み方が分からないわけでは断じてない。

 

うむ、やはり虚しい。
私の心を空疎で満たす、深い寂寥。これこそが、我が大学4年間の集大成に違いなかった。

咳をしても一人。

こんなおいしいケーキを一人で食べ寝る。


一時間以上かけて用意した晩餐を十五分かけずして平らげ、フライパンを洗う。
冬の乾いた空気でひび割れた指を痛ませながら、鍋を洗う。
大皿を念入りにこすり上げ、フォークを手短にスポンジで一撫でし、いよいよ泡を洗い流そうとした段になり、漸く思い至る。
私は、彼らとは違う。

 

私の人生に飾磨はいないのだ。高薮も井戸もいない。
小津もいなければ明石さんもいないし樋口師匠や城ケ崎先輩だっていないのだ。
勿論水尾さんも。

そして詰まるところ、私は”私”ではない。

 

相違点が明らかとなり、彼らと僕の間に埋めようのない溝が顔を覗かせた。
彼らは一人じゃない。阿呆で不毛な日常を送りながらも、楽しそうに笑い合っている。
一人寂しく皿を洗う僕とは、似て非なる存在なんだ。

決定的な違いは、やはりその勇気にある。
”私”、飾磨、高薮、井戸の四人は、同じ体育会系サークルに所属していた。
”私”と飾磨は中学以前からの同級生であると物語中で言及されているが、その他の二人はサークルで初顔合わせだったのだ。
つまり、サークルに入るというちいさな勇気が、彼らを結び付けた。

思えばもっと露わな例があるじゃないか。
四畳半神話大系の”私”がそれだ。
彼はいくつかの平行世界で異なるサークルに入り、歪な友好関係を築く。
失敗続きでいくつも恥を晒し、サークルに入ったことを彼は毎度後悔するのだが、今の僕にはそれが痛く眩しいものに感じられる。

彼がお約束の如く、運命を変えるために教えを乞うた占い師のお婆さんはこう言っていた。

「好機は何時でもあなたの目の前にぶら下がって御座います」

果たして、僕の目の前に好機はあったのだろうか。

 

いや、考えるのはよそう。
覆水は盆に返らない。
無為に過ごした大学四年間の時間も返ってこない。
それに、黒髪の乙女と結ばれるような自分は、どうも想像がつかない。
これ以上は無益だ。

 

では、思考の流れは自然と、こんな法界悋気を聖夜に積もらせてしまった原因へと移る。

そう!この責任の一端は間違いなく、私に歪んだ理想を見せてたぶらかした張本人、森見登美彦氏にある。
あんたのせいだぞ!

そもそもさもモテない男子学生の味方ですよなんて顔してるけど、ほぼ私小説のデビュー作の時点で主人公に恋人がいたんじゃねーか!このすけこまし!
男の純情を弄んだ登美彦氏の罪は重い。
有頂天家族の完結編を五年以内に書き上げなければこの恨みは晴らされないだろう。
それはそれとして今度出る新作、たのしみにしてます。

 

 

まぁ、思い返すも孤独な大学生活だったけど、でもそんなに悪いものじゃなかったようにも思える。
阿呆に憧れるも、一歩踏み出す勇気がなかった私。
そんな私も、阿呆には違いない。
同じ阿呆であれば、やはり私は彼らの仲間だ。
そんな彼らがずっと心の底にいたからこそ、私は大学4年間を乗り切れたのかもしれない。

 

そもそも大学生活が終わる雰囲気を出してるけど、まだ卒研発表と卒論執筆が待っている訳だが。

話が逸れに逸れ、収集がつかなくなってしまった。
この可燃かも不燃かも判別し難い記事に終止符を打つため、我が敬愛するバンドの名曲の詞を引用し、結びとしたいと思う。

僕たちの現在を

繰り返すことだらけでも 

そういつか君と出会おう

そんな日を思って 日々を行こう

未だ見ぬ君に思いを馳せながら、修士に進むことで二年延長したモラトリアムを空費しようじゃないか。

では、読者諸氏よ、あでゅー。