限りない日々の逃走劇

主にtacicaを褒め讃えるためのブログです

何時まで経っても僕は僕だった

あることで大きな失敗をして、どうしようもなく悲しくなったので、ここに吐き出したいと思う。ただただ鬱屈した気持ちを出力するだけなので、読まないことを推奨します。

 

他人と比べて僕は何もかもが劣っているように感じる。容姿性格コミュ力器量才覚価値観。その全てが。
勿論、妄言であるとは分かっている。欠点ばかりが目に付くだけで、どこかしらに長所があるのかもしれない。他者から見れば長所に思える点も、一つくらいはあるかもしれない。

だけども、主観で生きている限り、それらを明確に捉えることはできないのではないか?人から良いところを言葉で伝えられても、本心からの評価かはわからない。言葉に託した尺度も人それぞれだ。
それに、他者と他者はある程度客観的に見れても、他者と自分の間にはどうしても主観が混じってしまうだろう。他者を評価する時とは桁違いに大きく、そして絶対に切り離せないバイアスが、正であるか負であるかに限らず、掛かるはずだ。
だから、人の中にある自己を正確に捉えることなど、不可能だと思う。

僕は僕が嫌いだ。失敗ばかりで、どうしようもなくて、周りに迷惑ばかりかけて、それでも生きようとしてしまう。
僕が死んだら多分悲しむ人が数人くらいはいるだろうし、死ぬ覚悟もない。そもそもまだ生きたい。『有頂天家族』の最終章をまだ読んでないし、サカナクションの『アプライ』も聴きたい。どっちも早く出してくれ。
でも、このまま生きていて、周りにどれ程の負担をかけるかを想像すると、息苦しくなる。死にたいというよりかは、この世から存在自体を消したいと願ってしまう。

他者が嫌なら逃げるなりなんなりできる。でも自分が嫌だったら、どうすることもできないじゃないか。逃げられないし、捨てられない。命が終わるその瞬間まで、自分という檻から出ることはできない。
やっぱり、これはこの世で一番悲しい事に思える。

端から見れば、当たり前のことをくよくよ悩んでいると思うだろう。
そんなに嫌なら変わればいいじゃんとも言われるだろう。
けれど、僕にとっては消せない問題だ。
今まで引きずってきた自己は重い。簡単には捨てられないし、捨てたと思っても、いずれ影のように顔を出すだろう。
他者と比べる卑しい心は、消したいと願う程に強まる。
ならどう生きればいいだろうか?

 

この、”自分が自分であることで生じる悲しみ”に答えを出した曲がある。
僕がこの世で一番好きな曲、tacicaの「γ」だ。

open.spotify.com

何時まで経っても 僕と僕の身体

離れなかったから

何時まで経っても 僕は僕だった

いつ聴いても出だしのこの言葉にはハッとさせられる。
どれだけ時間が経とうとも自分は自分でしかなくて、離れられない。当たり前な事実に、聴く度打ちのめされる。

この曲はtacicaの中でも屈指の暗さだ。
”僕”が”僕”でしかないことが徹底的に描かれ、生きる悲しみが切実な声を伴って歌われる。
特に次の箇所は個人的に、tacica以外も含めたすべての歌詞の中で、最も悲しいフレーズだと感じている。

息が続く それが恐いのだ

だから未来を探さなかった

もう時間は過去だけで足りる

究極の悲しみだと思う。
息が続くこと自体が恐ろしい、このどうしようもなさ。
「もう時間は過去だけで足りる」という一言は、全てを諦めた人が吐いた遺言にすら聞こえる。

なのに、それなのに、それら全ては鮮やかに覆される。
悲しみはそのままに、考え方が正反対の方向へと進む。
この反転が、いつ聴いても素晴らしい。

息は続く それは恐い事

だから自分が愛しくなった

そんな声を高らかに生きる

言葉から、歌声から、力強さが溢れている。
実感を伴った悲しみを歌ったからこそ、底から照らすような希望がある。

”だから”の一言に、どのような意図が込められているかは分からない。
恐ろしいことを繰り返してでも生きようとする、”だから”その精神を愛しくなったとしているように僕は解釈しているが、実際のところ不明だ。
どうあったとしても、「そんな声を高らかに生きる」の一言には、偉大な救いが宿っていると思う。
自分が自分であることを散々に呪っていた。だからこそ、この言葉は一際輝かしい。

この曲は、冒頭とほぼ同じ言葉で締めくくられる。
しかし、その言葉に込められた思いも、やはり全く異なっているように感じる。

何時まで経っても 僕は僕の身体

離さなかったから

何時まで経っても僕は僕なんだ

いつか死ぬその間際にでも、この曲のように僕を受け入れられたなら。
切に祈る。

 

 

 

あー、晩ご飯作るのダルいな。